劇場公開日 2023年4月7日

  • 予告編を見る

「ザ・セカイ系! まどマギのごとく追い詰められてゆく伊東蒼の天才的演技を御覧じろ!」世界の終わりから じゃいさんの映画レビュー(感想・評価)

3.0ザ・セカイ系! まどマギのごとく追い詰められてゆく伊東蒼の天才的演技を御覧じろ!

2023年5月29日
PCから投稿
鑑賞方法:映画館

紀里谷和明監督のラスト作らしいし。
『さがす』での伊東蒼の演技にはマジでシビれたし。
映画の世評自体も、なかなか高いみたいだし。
あと個人的に、紀里谷監督のような「いけ好かないイケメンなのになぜか不器用な」「いきがって理想を語っては一部の反撥を食らってしまう」タイプの人間は、なんだか無性に応援したくなるので、まだ上映している間に観に行ってきた。

うーん、どうなんだろう。
褒める気まんまんで観に行ったので、あまり悪口は言いたくない(笑)。
こういう個性あふれるオリジナルを、監督個人の力で頑張ってまとめあげたのは立派だし、「セカイ系」ジャンルの映画としても、ふつうに愉しめる映画だった。
2時間以上あるのにダレずに最後まで観られたということは、娯楽作としては「旧作より」面白く出来ていたということだ。
ただ、出来が良かったかと言われると、なんか困るね……。

ヴィジュアルセンスに関しては、間違いなく才能豊かだし、自分の色がある。
冒頭、鉄さびめいたモノクロで草原が映し出された瞬間に「ああこれ紀里谷監督の映画だ!」と分かるくらいに「彼の好み」が画面全体に行き届いている。
女性を魅力的に撮り、いい演技を引き出す能力も結構高いと思う。

ただいつも脚本が、もう一押しなんだよな。
セカイ系であること自体は構わないし、それを『エヴァ』っぽいとか揶揄するのはさすがに狭量に過ぎる。セカイ系はすでに「ジャンル」だ。
ただ対抗馬の多い人気ジャンルだけに、そのぶん新しさやセンスの良さが評価対象になるのも確かだ。

本作の場合、やっていることはよく言えば王道。
悪く言えばあまりに通り一遍だ。
女子高生の貧困ヒロイン。「夢見」の能力。
国家を操る呪術機関。対抗する不死の勢力。
いじめっこ。隣室の幼馴染。信頼できる警察官。
タイムリープ。いやボーン。地球滅亡の危機。
実は●●は○○でした……。

おおむねどこかで見たことのあるような、ギミックとガジェット。
たとえば、これが「ラノベ」だったら、所詮「ラノベ」だということで許されるんだろう。
「アニメ」であっても、お約束の範疇でたいして気にならないはずだ。
雨宮慶太が同じことを「特撮」の枠内でやっても、そういうもんだと思って、喜んで観ると思う。
でも、そういった「ジャンル感」補正を抜きで観るとなると、やはりオチまでふくめて若干陳腐な感じは否めない。

逆に紀里谷監督サイドからすれば、「王道」で何が悪い、といったところかもしれない。
彼はいつも「王道」エンタメを、自分色に染め変えて作品をつくってきたからだ。

『CASSHERN』では昔の懐かしアニメ。
『GOEMON』では懐かしの伝奇時代劇。
彼は、それらを「とんがったMVやCM風の洒落た映像とスピーディなアクション」の枠組みに流し込む形で「変容」させてきた。『ラスト・ナイツ』は未見だが、わざわざ日本が舞台の『忠臣蔵』のオファーを受諾後、監督本人の意志で西洋の騎士道世界に話を移し替えたらしい。

要するに、「昔からある王道のエンタメ」に、紀里谷監督独自の映像センスをまぶしたうえで、今風の映画に「換骨奪胎する」というのが、彼の創作術なのだろうと思う。
既存のエンタメを少し別の文脈にずらして再投入することで、新たな価値を生み出そうとする創作方法としては、意外と村上隆とかと似たタイプなのかもしれない(べつにけなしてない)。
で、今回の題材は、アニメやラノベの枠内で長く醸成された結果、既にある種の「型」が組成されている「セカイ系」だったということだ。

まあ王道なら王道で、細部まで考え抜かれた内容であればべつに良いと思う。
だが、微妙にかみ合わない部分が多いんだよなあ。あちこち。
以下、悪口っぽいので、読みたくない人は次の破線まで飛ばしてください。

― ― ― ―

何よりひっかかるのは、ヒロイン・ハナの女系家族が歴代「夢見の巫女」だったというのに、なんで組織は彼女を貧困生活に甘んじさせてきたのか、ということだ。
最近見つかったというのならわかるんだけど、親も同じ仕事してて知ってたって言うなら、泣きながらバイトしてるんだから陰からでも助けてやれよ、と。
だいたい、日本の法律では未成年者はまちがいなく「単身で」生活保護を受けられるし、在宅で受けられる奨学金だってあるんだし。
まして「真相」から逆算すれば、それこそハナを不幸の臨界点まで追い込んだら組織としては「絶対にダメ」だったと思うんだけど。

未来が書かれた本があって、それによって2週間後に世界が滅ぶってわかってるんなら、もっと早くから動けよともみんな思うよね。ハナが夢を観始めないと動き出せない、という理由もあるのかもしれないが、なんで彼女が夢を観始めたかもイマイチわからないし、それをどうやって組織が察知したかもよくわからない。
それと「夢に見た内容を伝えたら良い」という「任務」が、あまりに簡単すぎて大仰に騒ぐほどのことなのかって気になるし(報告くらいすればいいじゃん)、夢のなかの任務(手紙を祠に届ける)にしても、最後まで観ても「誰の書いたどういう内容の手紙をなんの目的で届けたか」が今一つよくわからない。少なくともユキちゃんが書いたわけではさすがにないと思うし、手紙の内容が「ユキちゃんの願い」だったとすれば、無限の連中が妨害しようとしている理由も、湯婆婆が必死で届けさせようとした理由も、曖昧になってしまう。だって届けさせたほうが無限の民の思惑に明らかにプラスじゃん。

あと、世界の滅亡にまつわる話で、総理や官房長官まで出てくるのに、他の世界各国との連携とかが全然出てこないのもなんだかなあと思う(たとえば同じような終末論をめぐる『ノック』だと、べつだん国家機関の人間は山小屋のメンツにはいないのであれでいいんだが)。
国家機関の扱いについては総じてかなり雑で、高橋克典みたいな悪役はもちろんいていいのだが、それは官房長官の仕事じゃあないだろうと(あとキャラ設定がかなりダサいし、立ちションとか含めて「やりすぎ」てる結果が映画のプラスにちっともなっていない)。毎熊克哉と朝比奈彩はとても良いキャラだと思うが、もう少し日常でのハナとのやりとりがあったほうが、あとでこちらも感情移入できたのでは。

そのほか細かいところだと、「夢見をこれから依頼するつもりの少女を学校から連れ去るときに、絶対あんな連れ去り方はしない」(それで協力してくれなくなったらどうする?)とか、「閉まっていた引き戸を開けて遅刻してきたハナが扉を閉めずに着席する」(ハナのイメージを悪くしてどうする?)とか、誰か監督に「おかしい」って横で一緒にスクリプトチェックをしてくれる盟友はいなかったのかなあ、と。

なかでも一番ひっかかるのは、「いきなり暴徒化して襲ってくるSNS民」。
これ、最近他の映画かアニメでも全く同じシチュエーションを見た記憶があるけど、
いくら正体がリークされたからって「世界を滅亡から救うために占いしてる少女」を全員で殺しにかかるって、やっぱり一足飛びすぎて無理あるんだよなあ。組織ももっと早くハナを装甲車で連れ出せよ。てか、SNS民やテレビキャスターや暴徒化したねらーの描き方に品がなさすぎる。すなわち、紀里谷監督の「私怨」が入りすぎてる。

僕だって最近の文春砲やらセブンやら新潮やらが火付けして、「正義」のSNS民やヤフコメ民が炎上させて、それをまたマッチポンプでマスコミが延焼させて、狙った芸能人やタレントを文字通り「焼き殺す」ようなカルチャーには心底うんざりしている。
そもそも、役者だとか作家だとかスポーツ選手に「道徳」を求め「聖人君子たれ」と強要する近年のファン心理自体にまったく共感できない。普通に生きられないから、芸能界や文壇やスポーツの世界に居るロクデナシはゴマンといる。あいつらは「あぶれもん」だからああいう仕事をやっているのだ。ほんのひと昔前までは、遺棄児童や被差別者や性的マイノリティが「実力だけで」夢をつかめる世界は、そこにしかなかったのだ。あるいは「くるっている」からこそ、只事ではない異常な何かは生み出せるものなのだ。
そういう連中を世間のパンピーの倫理で裁こうとか、ちゃんちゃらおかしい。
マジでそう思ってる。

でもね、「実際にやられた当事者」がここまで「いままでの積もり積もった恨みを晴らすような」映画を「ストレート」に撮ったら、やっぱりカッコ悪いし、幼稚な感じがするし、映画の説得力が弱まっちゃうと思うんですよ。
僕としてはやはり、暴徒が襲ってくる設定にするのなら、もうひと押し彼らが本当に「ハナを恐れなければならない理由」だったり、「それを煽動して操っている特定のカリスマ」だったりを出して、彼らの行動に説得力をもたせてほしかった。

あと、この話は実はこの座組なのにいったん「○○○エンド」で終わる(そのあと冨永愛のパートがある)ってのが構成上の一番の特色だと思うんだけど、そこをあまりうまく強調できていないのはとてももったいない気がした。終盤の展開をもう少しだけわかりやすく整理できて(とくに男の子の正体のあたり)、希望と絶望のあいだで揺れ動くハナの心をリアルに体感できるように描けていたら、見違えるように良い映画になったのでは?

― ― ― ―

とまあ、いろいろ文句も書いたけど、
基本的には「2時間以上あるわりに、まったく退屈せずに最後まで観られた」のもたしか。
一番の理由は、伊東蒼の演技の素晴らしさ。それに尽きる。

てか、いくら脚本に隙があろうが、このヒロイン役を「伊東蒼にオファーして受けさせた」ってだけで、紀里谷監督の仕事としてはもう、最大限に評価していいのではないか?
よくぞこの娘にやらせてくれた。

とにかくうまい。
それは『さがす』のときにも重々思っていたが、
今回はさらにいろいろな一面を見せてくれて、本当にびっくり。

あとこういうと可哀想だけど、この娘は「不幸」な役がよく似合う。
なにせ、前の映画『さがす』のお父さんは佐藤二朗で、その前の映画『空白』のお父さんは古田新太。親運が悪すぎる(しかも『空白』の蒼ちゃんはすぐ轢き殺されてしまう)。
今回の親には、早々に死なれてるうえに理由があれだし。

極貧だわ、唯一の身よりの婆さんも亡くすわ、学校ではいじめられてるわ、○○までやらされてるわ、将来の夢は潰えるわ、いざ機関に協力しても世間からは叩かれるわ、味方は次々と○○されるわ……辛いことばかりがあって、ちょっと光明が差したと思ってもまた悪いことが強烈な反作用でぶり返してくる。

みんな『エヴァ』とか言ってるけど、これ『まどマギ』でもあるんだよな。
「魔法少女になってくれ」って依頼されて、正義と未来のために心を決めて引き受けるんだけど、意気揚々と頑張れたのは最初だけで、あとはただひたすら酷い目と怖い目に遇い続けたあげくに、元凶がなんだったかを知るっていう。
もとが不幸で、少し「頼られる」歓びを知ったあとに奈落が待っているから、よけいにきつい。しかも……結果的に紀里谷監督はいやボーンによって、蒼ちゃんに○○○までさせている。どんだけ彼女を汚せば、気が済むんだってくらいのいたぶりよう。
あげくに最後があれだから、本当に救いがない。

要するに、『世界の終わりから』という映画は、突き詰めれば、伊東蒼という天才女優を「いったんもちあげたあと突き落とし」「合法的にとことん不幸な目に遇わせて」「極限まで光り輝かせる」ための搾取装置なのだ。
やっていることはずいぶんとひどいが、結果的に女優としての魅力を最大限に引き出すことに成功している。
これは、間違いなく紀里谷監督のお手柄だ。
天才・伊東蒼の真骨頂を味わうためだけにでも、この映画は多くの人に観られるべきだ。そして(僕とちがって)紀里谷監督とうまく波長を合わせられたら、おおいに感動してもらえればと思う。

そういや岩井俊二えらく楽しそうだったな。
『リップヴァンウィンクルの花嫁』に紀里谷氏が出たバーターかな?
あと、いじめっ子のこと山本舞香だと思い込んでて舞香ちゃんごめん!

じゃい