劇場公開日 2023年3月17日

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「名監督&名優の久々の帰還。いかにもフレンチ・ミステリらしい情感と味わいを愉しむ。」メグレと若い女の死 じゃいさんの映画レビュー(感想・評価)

3.5名監督&名優の久々の帰還。いかにもフレンチ・ミステリらしい情感と味わいを愉しむ。

2023年6月19日
PCから投稿
鑑賞方法:映画館

佳作だと思う。
お話としては、出来の良い2サス程度といったところかもしれない。
ものすごく地味な内容のうえに、特別な何かがあるわけでもないのだが、フランス映画らしい情感と味わいがあって、印象は悪くなかった。
パトリス・ルコントのフィルムづくりは、やはり練達の渋みと画格(と画角)の美しさがあって、観ていて心地良い。

パトリス・ルコントとジェラール・ドパルデュー。
懐かしい名前だ。
ドパルデューのほうは、大学にうかって上京してすぐの時期に『シラノ・ド・ベルジュラック』を観に行ったのを覚えている。秋の学祭のクラスの演し物でまさに『シラノ』をやることになって、劇の参考にしようとクラスの有志一同で学校から歩いてぞろぞろ渋谷の文化村ル・シネマまで観に行ったのだ。ちなみに、感動のあまり号泣してみんなに笑われたのは我ながら青臭い思い出です(笑)。
そのあと移民がアメリカ移住に四苦八苦するロマンティック・コメディ『グリーン・カード』も封切られて、こちらのドパルデューも大変な名演技だった。
で、ちょうど同じ年の冬に、ルコントの『髪結いの亭主』が大ヒット。
こちらも、ル・シネマまで観に行ったのをなんとなく覚えている。
ルコントとドパルデューの名前は、まだ自分が若くて夢にあふれていた頃の記憶と分かちがたく結びついている。

その後、ドパルデューの映画は『1900年』だったり『終電車』だったり『カミーユ・クローデル』だったりを映画館で観たものの、いずれも90年より「前」の映画で、「後」の映画となると日仏学院でクロード・シャブロル映画祭をやってた時期に『刑事ベラミー』を観たくらい。
なので、いちおう噂には聞いていたけど、マジでめちゃくちゃ肥ってて、ちょっとびっくりした(笑)。

いやまあ、べつに肥っててもいいんだけど、なんぼなんでも肥りすぎではないのか??
立ったり歩いたりするのに困難を生じるレベルで肥ってるんだけど、大丈夫なのか?
こんなに肥ってるから飛行機でおしっこしたり、ロシアに国籍移したりしちゃうんじゃないのか?
しかもタッコングかハンプティダンプティかと見まがうばかりに肥っているのに、なお体と比して顔が異様に大きく見えるのって、どういう体のつくりをしているのか??
一応、メグレも身長180センチ、体重100キロというから、役にはぴったりなのかもしれないが……、どっちかというとネロ・ウルフとかドーヴァー警部のキャラに近い肥り方のような……(笑)

メグレといえば、ジャン・ギャバンである。
といっても僕は『殺人鬼に罠をかけろ』しか観たことがないが、『サン・フィアクル殺人事件』『メグレ赤い灯を見る』の一本の計3本で主演している。彼の場合は、デブというよりは偉丈夫で、貫禄と風格のあるメグレだった。あれはあれで原作のテイストとはかなり違うという意見もあるようだが、原作でもメグレってここまで「動くのもやっと」って感じなんだろうか。
シムノンは、大昔にルコント映画の原作でもある『仕立て屋の恋』と、タル・べーラが映画化した『倫敦から来た男』くらいしかちゃんと読んだことがないので、よくわからないが。
(書棚には何冊かメグレものがあるけど、未読。この機会に読んでみるかなあ)
いろんなフレンチ・ミステリのあとがきとか読んでると、シムノンって作家は推理小説家というよりは、バルザックに近いような文豪としてベルギーやフランスでは敬愛されてるようだ。要するに「謎」以上に「人間の機微」を描く作家、という位置づけなのだろう。

なんにせよ、本作のメグレは、わざわざ「呼吸器に異状をきたし医者から大好きなパイプをとめられている」という設定を作ってまで、なるべく「既存のメグレのイメージ」を拭い去った「ドパルデューのメグレ」として成立させようとしているくらいなので、「見たままありのまま」で受け止めればいいんだろうとは思うが……。
でもこんだけ肥ってて甘いものは苦手とか、それはさすがに噓だろう(笑)(敢えて肺の検査結果が出るまでそう言って我慢してるとか?)

― ― ― ―

映画の冒頭、若い女性が貸衣装店でドレスを着させてもらうシーンは、妙に印象的だ。
当初、どこかひっかかりを感じるのは、やたら手の込んだカメラワークでバストトップを観客から守り続けるそのやり口が面白いからかとも思ったのだが、よくよく考えてみると、違和感の原因はむしろ「相手が女性なのに頑なにバストトップを手で隠し続ける女性」の怯えようにあったことに気づく。
一方で、貸衣装店のおばさんが、女性の肌に這わせる指のふるえは、いかにも同性愛的だ。
この若い女性の「性的な視線への恐怖感」と、彼女を求めるかのような「同性愛的なほのめかし」は、実は後半に展開される事件の中核部分と深く関連している。
振り返ってみれば、とてもよく考えられた導入部といえるのではないか。

婚約式への彼女の登場と、新郎新婦の動顚ぶり。
このへん、ちょっとニューロティックな感じも含めて、ノリはBBC版『名探偵ポワロ』にとても近い感じがする(そういえばエルキュール・ポアロはシムノンと同じ「フランスで活躍するベルギー人」だし、BBC版『ポアロ』もまた、時代設定を1930年代後半に固定して、あくまで歴史ものとして原作の完全再現を目指していた作品だ)。
そのあとどうなったかは明示されないまま、女は胸を何度も刺された状態でモンマルトルで発見され、いよいよメグレ警視が登場する。

物語の特徴としては、冒頭から「殺された女性の身許が不明」という五里霧中の状態のまま聞き込みがスタートするからか、警察もののわりにとても「ハードボイルド」な風味がある。私立探偵ものに近いフォーマットで事件が展開するからでもあるし、メグレの風貌やファッションが刑事というよりは探偵っぽい感じがするからというのもあるだろう。

メグレは地道な聞き込みを経て、彼女にドレスを貸した貸衣裳店にたどり着き、彼女の私物であるバッグを手に入れて、ようやく「彼女が何者か」を知ることとなる。
一方で、彼は被害者と似た年恰好のおのぼりさんで、目の前で万引きをしようとした「若い女」を保護し、観察下に置く。
こうして物語は、「死んだ若い女」の最期を知るべくメグレが辿る捜査の過程と、「生きた若い女」との(親子とも、男女ともいえそうな)微妙な温度感の心の交流が平行して描かれ、やがて「二人の若い女」のイメージは思いがけず重なり合うことになる。

メグレの「若い女」に対する共感の深さ、想いの強さ、捜査への執念には、れっきとした「理由」がある(中盤以降、明確に明かされるので、ここでは詳細には触れない)。
逆に言えば、本作はその「理由」のせいで「メグレ警視自身の事件」へと様相を変えてゆく捜査の様子と、メグレの揺れる内面描写がキモとなってくる。
まあ、ドパルデュー自身は純粋に若い娘が大好きな性豪俳優で、レイプ訴訟やら二桁に及ぶセクハラ訴訟を抱えているような超危険人物なので、なかなかに挑発的なキャスティングかましてきてるな、とは思ったけど……(笑)
とはいえ、さすがはドパルデュー。演技としては文句のつけようのない仕上がりでした。

老警視のかかえる、底なしの後悔と、わが身をかきむしるような空虚さ。
その「足りない何か」を取り戻すために、彼は捜査にのめりこみ、禁じ手に近い詐術まで繰り出して事件の真相を明らかにしようと奔走する。
殺された「若い女」を、名もなき存在から名前のある存在へ、よるべない存在から確固とした存在へと「あらためて見つけ出してやる」ことでしか、メグレの抱える虚ろな闇は充たされないのだ。

― ― ― ―

ミステリとしてはいろいろ物足りない部分も多々あるし(そもそも事件の真相自体があまり面白くない)、たとえ50年代であっても、司法解剖や現場検証によってもっと早いうちに明らかになっていた事実もあったのではないかとも思うが、そこは追及してもあまり詮無いような気もする。

それより、撮影や小道具、演技の機微などを楽しめばそれで良い映画なのではないかと。
とくに、50年代のまだ薄暗かったパリの街をイメージさせる、室内シーンのやたら暗い撮影プランは、ルコントがどういう主義の監督かは知らないが、トリュフォーが『アデルの恋の物語』で、あるいはキューブリックが『バリー・リンドン』で、蝋燭と自然光だけで撮ったエピソードを彷彿させる。

あと、やっぱりルコントは女性を綺麗に撮る監督さんだなあ、と。
『髪結いの亭主』や『仕立て屋の恋』のような淫靡な情感はないとはいえ、三人の「若い女」を三者三様に描き出すこだわりとフェティシズムは、老境にはいってなお健在だった。

でも、結局「夜会」って、なんだったんだろう?
なんか、すげー谷崎めいた香りがしたけど(笑)。

じゃい