劇場公開日 2023年3月18日

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「エイゼンシュタインの再来かっ!」ミューズは溺れない グランド・ファンク・レイルロードさんの映画レビュー(感想・評価)

5.0エイゼンシュタインの再来かっ!

2023年3月20日
PCから投稿
鑑賞方法:映画館

楽しい

知的

萌える

【1】

2日続けて2度観た。良く分からなかったからではない。良く分かったからこそ、そうせずにはいられなかったのだ。

これからこの映画を「内容」と「形式」の両面から論じる。
「内容」とは、小説で言えば世界観、キャラクター設定、あらすじまでである。小説本文に取り掛かる前に、決めておかなければならない事である。
小説の「形式」とは、小説のシーンを切り回して行く技術、情景描写、心理描写、セリフ回し、そして文体を指す。読者の目に触れる部分、いわば小説のインターフェースである。

プロットは良いんだが、萌えない小説。
美酒のようなレトリックを駆使するが、それ以外は何もない看板倒れの小説。
どっちも読みたくないでしょう。

批評家だって神様じゃない。
小説の「内容」だけ論じてオシマイなのを「テーマ主義批評」と言う。
逆に「形式」と戯れてばかりいるのを「印象主義批評」と言う。
どっちも時代遅れだが、これ以上は立ち入らず、「ミューズは溺れない」に話を戻す。

【2】

「ミューズは溺れない」のテーマは何か。
青春である。それも荒々しい青春である。激しい恋である。やめろと言われても、今では遅すぎたのである。
実際、暴力寸前のシーンもあるのだが、それも青春の苦悩のなせるワザである。
み~んな悩んで大きくなった。だから、これで良いのだ。
どうです?分かりやすい映画でしょう。

【3】

次に「ミューズは溺れない」のキャラクター設定およびあらすじについてなんだが、これには余り踏み込まない方が良い気がする。
解説を要するような難解な点はない。「後は観てのお楽しみ」と言う事で良いのではないか。

まあ、これでスルーしちゃうのも申し訳ないので、永遠の青春小説、梶井基次郎の『檸檬』を引き合いに出しておこう。
『檸檬』は、何だか良く分からんが、いい歳こいたオッサンがぶらぶら歩きの挙げ句、青春が爆発しちゃう短編である。

「ミューズは溺れない」でも、年端も行かない女子高生たちが大爆発する。
その爆発に何の意味があるのかは分からない。梶井基次郎の『檸檬』と同様に。
そもそも、それをやった事で、自分たちを取り巻く状況が、多少なりとも前進するか否かも、全ては今後に掛かっている。
この映画の時空に限れば、何もかもが無茶で無意味で無鉄砲なのである。
でも、私はその元気がうらやましい。おじさんは、もう生きるのに疲れたよ。
いや、失礼しました。

【4】

さて、お待ちかね、「ミューズは溺れない」の表現形式についてだが、これにはホントに驚いた。かなり手が込んだ、凝った表現が多い。
誠に残念ながら、映像表現に素人の私の目では、作り手の意図の全てを捉えきれなかった。
だから、以下に記すのは「おそらく間違っているであろう、素人の仮説」と受け取っていただきたい。

【5】

最初のシーンで度肝を抜かれた。

「これ、フィルム・カメラで撮ってるんじゃないか?30年も経ったら、退色して画面がまっ黒になってしまうんじゃないか?」

いや、そんな筈はないのだが、日陰の部分を暗めに、つぶし気味に画質調整しているのは確かだ。
ナントカ映画祭で、例のアレが欲しいなら、なるべく間接光を当てて、飛ばし気味に調整するのが通り相場だと思うのだが。

【6】

カメラワークも荒々しい。ハンディ・カメラ一つで、俳優の毛穴が見える距離まで肉薄する、まるで社会派ドキュメンタリーみたいなシーンもあった。
懐かしいな、この雰囲気。この緊迫感。小川紳介や大島渚みたいだ。
ただし、ナントカ映画祭で例のアレが欲しいなら、ここは小津安二郎みたいに、カメラをレールにベタッと固定してしまうのが無難だと思うのだが。

カメラは暴れん坊だが、うるさくは見えない。落ち着いて観ていられる。映画の中に、すんなり入り込める。最初に観た時は、これがフシギだった。

2度目に観た時、ようやく気が付いたのだが、「ミューズは溺れない」には長回しのシーンが一つもないのだ。俯瞰で撮ったのもラスト・シーンのみ。ただし、これも長回しと言うほどではない。
バサリ・バサリと短いシーンをつないで行く。その度に視点も動線もコロコロ変わる。時には逆光まで入る。だが、それをそうと意識させない。これが、この映画の作り手の力量なのだろう。腕前なのだろう。

小説に置き換えれば「文体がいい」のだ。美文調・星菫派ばかりが名文ではない。武者小路実篤の『友情』みたいな、ちぎっては投げ、ちぎっては投げの名文もあるのだ。
ただし(くどいようだが)ナントカ映画祭で、例のアレが欲しいなら、客が飽きようが寝ようがお構いなしに、タルコフスキーばりの長回しで圧倒すべきなのだが。

ついでに、もう一つ言い足しておくと、ピントの切り替えも思い切りが良い。私が記憶している限りでは、パン・フォーカスしたシーンはなかったと思う。
客は、作り手が「見せたい」と思った物を、強引に「見せられて」しまうのだ。
この点についても、ナントカ映画祭で例のアレが欲しいなら(以下省略)

全体として「ミューズは溺れない」は、昭和50年代の日本映画と、良く似た雰囲気を漂わせていると思った。長谷川和彦や大林宣彦だけではない。「必殺仕事人」や「蒲田行進曲」も含めての昭和50年代である。
これはまあ、私の思い込みに過ぎなかったらしい。印象主義批評には、こういう落とし穴がある。

淺雄望監督は、増村保造の映画がお好きとのことである。

【7】

これも2度観て気が付いた事なのだが、「ミューズは溺れない」の画面構成は象徴的な表現に富んでいる。エイゼンシュタインの『イワン雷帝 第1部』みたいだ。(黒澤明の失敗作、『影武者』の元ネタである。)

今どき、イワン雷帝じゃ「意味わかんない」と言われそうだから、ベタな言い方をすると、「ミューズは溺れない」は、どこでストップ・モーションしても、スチール写真みたいに絵ヅラがバチッと決まっているのである。
これは、ものすごい事だ。映画は動きを追うもの、移ろうもの。スチール写真は瞬間を切り取って、「停止した時間」の中に封じ込めるものだからだ。だから映画はエロス(生命の躍動)を志向し、写真はどうしてもタナトス(死の影)を写し取ってしまう。
もう余り見かけなくなったが、映画館のショー・ウインドウに貼り出されたスチール写真は「フィルムが捉えなかった映画のアナザー・ストーリー」みたいで、見ていて飽きなかった。

「ミューズは溺れない」の象徴性の高さについては、これは私の思い込みなどではない。
ウソだと思ったら、TVドラマでも、映画のDVDでも良い。どこかで一時停止してみれば分かる。俳優の表情は時々刻々変化する。たまたま止めた所で、俳優は口をポカンと開けていたり、両目を閉じていたり、体のバランスを崩していたりする。「決め顔・決めポーズでバシッと止める」のは、俳優ではなく、モデルの仕事なのだ。

「動いているのに、絵になってる映画」と言うのは、ありそうでない。
私の頭にパッと浮かぶのは、タルコフスキーの『ノスタルジア』、そしてシャンタル・アケルマンの『ジャンヌ・ディエルマン ブリュッセル1080、コメルス河畔通り23番地』と言った所か。
両作とも、観客のエネルギーをスポンジみたいに吸い取る催眠映画・拷問映画である。

さて、淺雄望監督は「ミューズは溺れない」の制作に当たり、どんな「弁証法的絵コンテ」を切ったのだろうと思っていたら、監督いわく、

「絵コンテも字コンテも切ってはいないが、俳優とは画像イメージを共有した。また、リハーサルには通常の倍以上の時間をかけた。」

とのことである。その割には俳優が好き勝手しているように見えたが、それは「素人には、そう見えた」と言うだけの事だろう。これ以上は踏み込むまい。

【8】

実は2度目に観た時は、もうストーリーを追わず、セリフも上の空で聞き流していた。
もしも「ミューズは溺れない」を、私の知らない言語(ロシア語でもアラビア語でも良いが)で吹き替えて、字幕も付けないまま観せられたとしても、さほど違和感なく、映画の中に入って行けそうな気がする。
ストーリーが語るよりも、セリフが語るよりも、この映画は絵ヅラが語っているのだ。まるで『戦艦ポチョムキン』みたいに分かりやすい。いや、誰も階段から落ちませんけど。

ここら辺の映像マジックに、淺雄望監督の「四次元ポケット」が隠れていそうなのだが、もう私には良く分からない部分である。

実はYouTubeには、淺雄監督の初期作品が2編、アップされている。

・ドキュメンタリー『アイム・ヒア』【東京レインボープライド2018インタビュー&パレード】(2019年、41分)

・セミ・ドキュメンタリー『躍りだすからだ』(2020年、22分)

私は「ミューズは溺れない」を観て、それから上記2作を観て、それから「ミューズは溺れない」をもう1回観た。
色々発見があって面白かったが、上記2作と「ミューズは溺れない」の間には、連続性もあるが、不連続性もある。大きな飛躍があるのだ。ここら辺の事情が、やっぱり良く分からない。

まあ、野暮な詮索は、これ位にしておこう。全ては、淺雄望監督の次回作以降をフォローすれば分かる事なのだから。
(以上)

グランド・ファンク・レイルロード