劇場公開日 2022年12月9日

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「僕はあなたを16年4か月想い続けてきた。」天上の花 栗太郎さんの映画レビュー(感想・評価)

4.5僕はあなたを16年4か月想い続けてきた。

2022年12月13日
PCから投稿
鑑賞方法:映画館

舞台挨拶付き。

この時分の文化人には、女にだらしなく金銭感覚がずれている人間がそこそこいて、今でいえばコンプライアンスにひっかりまくっている評伝ばかり。ここにでてくる三次達治もまたその一人と言える。ただし、本人の名誉のために書き添えれば、映画のすべてが真実ではない。そのエクスキューズとして人物の名も変えてあるのだろう。
あくまで映画の中の三次達治評として。

ただ、"美しい"だけで慶子に惚れこんでしまった達治。「やはり野に置け蓮華草」の典型的な悲しい展開が、三国湊で同居を始める二人に待ち受ける。想いに沿わない慶子に暴力をふるう達治も悪いが、もともと(世間的なものは別として)純粋に慶子を愛した達治の言動が変わっていった原因が彼女に一切ないとは言えない。あなたを想って、と渡した詩集『花筐』を、今読まなくちゃいけないか?って突っ返したら、それは詩人としての彼の存在を否定したようなもの。捨てセリフのように「あなたがどんな詩を書いたところで日本は戦争に負ける」と言われたら達治には刃物で切り裂かれたようなもの。「一万円あげたら戻ってきてくれますか?」なんてサイコパスな願いを言うのも、慶子自身が作り上げたようなもの。だから、いつまでも慶子を忘れがたく、のちに娼婦に「上に」と願う心情も哀れですらある。
この役を東出昌大が演じる以上、観客には観る前からすでに何かしら(言わずと知れたスキャンダルの)バイアスがかかっていて、そのおかげで客の脳裏で作られるキャラクタ形成に深みが増す。東出は、それをむしろ武器にしてる気もする。個人的には、どこか文芸的な下地も漂わせながら、世間にへつらうことのないその姿勢は好きだ。だから、達治がときどき生身の東出ではないかと想像してしまう。「太郎を眠らせ、・・」と謳いあげながらそのもう片方の手で他所の女を抱き上げるような達治はまた東出本人のようでもある。それは、裏切りと映るかもしれなけれど、そいう二面性こそ表現者の資質なのかと思う。肯定はしないが。実際、舞台挨拶の壇上での彼は、着飾ることがなくてもそこはかとないオーラがあった。

挨拶の中で、劇中に引用した誌についての解説もある、というのでパンフレットを買う。
プロデューサー寺脇氏と元日本教育学会会長の広田氏の対談を読むと、戦争詩を書いたり、慶子を殴る達治の精神構造の根っこが見えてくる。軍の学校生活を過ごした経験のある達治だからこその行動なのだと理解(だからといって支持ではないが)できる。自分の言葉が通じない慶子に対する苛立ちも間接的に伝わってきた。叩く(手を上げる)と蹴るの違いもうなずけた。
落語家の林家彦三さんの寄稿もある。もともとこの映画を観るきっかけはこれなのだが、その文の中で「愛情もかなわない力がある、それは時間だ」というハイネの言葉を引用し、原作の、「時間さえ止まってしまえば、この愛は変わらない」、の言葉につなげている。その感情は分からなくないけれど、そんな、凍結しなければ手から放れてしまうような愛など、とても辛いことだとも思う。むしろ"時間"が絶対的な力を発揮するのは、"悲しみ"に対してだと思う。それも、時間を止めるような不可逆的な切望ではなくて、抗うこともできずに流れていく時間にただ身を任せることで、"悲しみ"は薄められ、その力は発揮される。つまり達治にとっては、叶うことができなかった愛を受け入れる服薬としての"時間"こそが必要だったのかな、と思う。ただし、消えることはないのだよな。その代わり、それが美しい思い出に変化していくことはある。晩年、大事にしまっておいた慶子の着物を時々眺めていたであろう達治の姿を想像するにつけ、ぜひそうであってほしいと願うし、その表情は穏やかであってほしい。
そしてこの文中で彦三さんが言うのは、寄稿するにあたり、人に、恋や愛について尋ねた際に一様にして「誰しもが中空を見上げるようにして、語りはじめた」らしい。その下りを読んだ時、突然にぎゅっと胸をつかまれた気分になった。そのとき、僕の胸にもいくつかの、かつて美しかった花が開いてみえた。

栗太郎