劇場公開日 2021年11月19日

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「旧弊なたわごと」ずっと独身でいるつもり? 津次郎さんの映画レビュー(感想・評価)

0.5旧弊なたわごと

2022年1月20日
PCから投稿

まず第一に男が全員ばかに描かれていてアンフェアです。
その時点でもはやあれだけど80年代みたいな古い話だし都市の独身女の憂鬱ってそんな深刻じゃない。楽しく自由に生きている人たちを、なんかものすごく背負ってるみたいに描かないでほしいなあ。「ボクたちはみんな大人になれなかった」と言いつつ、平和を満喫しながらみんな食べて寝て大人になったわけで。

だいたいにおいて地方で結婚できない独身男のほうがずっと深刻なのであって、東京のお百姓たちの話をさも日本ぜんたいの話のように一般化してほしくない。です。

どこかの難民にこれとかボクたちは~とか見せたらどう思われるのだろうか。どこがなぜ哀しいのかせつめいをしなきゃりかいしてもらえないんじゃないかなあ。
日本が生きやすい国とはまったく思わない。この原作者もじっさいなんらかの理由で夭折している。
でも日本映画っていつだって弁解がましい。だれかになにかを弁解することで同情をさそってくる。かならずかわいそうなんだぞとか被害者なんだぞとかの気配がまとわりつく。

さいきん見たネットニュースでクラクションをならしたところ紫色のアルテッツァにあおられた──というのがあった。
ドライブレコーダーによる動画付で前方を行く紫のアルテッツァが蛇行したり、バックしたり──する。
動画の投稿者の車には妻や子供も同乗しており「恐怖を感じた」などと述べていた。

どうだろう。
あなたはデコカーやベンツやBMWや紫色のアルテッツァにクラクションならしますか?
いっぱんに、いっぱんてきな人は、そういう主張のある車にたいしてクラクションはならさない。ぜったいに。(ぜったいに──を付けても不正確とは言えないほどに。)

ヒグマに出くわしたとき、ヒグマを挑発しますか?
まして家族といたなら、なおさら。
迂回するか、静かに通り過ぎる──しか選択はない。

言いたいことが伝わるかわからないが、世の中には劇場型人間というタイプが存在する。
劇場型人間は紫色のアルテッツァに乗ったDQNよりも厄介な存在。──だと思う。

このニュースの投稿者は、車線を外れただけ紫色のアルテッツァにクラクションをならしている。とほうもない無邪気さ──だが、そこまでなら、たんにそれだけのこと。

劇場型は違う。
みずからあおり運転を誘発して動画におさめそれをツイッターへ投稿。その「撮れ高」に対してニュース案件依頼とアルテッツァのドライバーからリプライがあったらしい。当人からのリプライでさらに恐怖を感じたとのことだったが、公にしなくていいことを公にして注目をあつめる意思と、あくまで被害者の立脚点に特長がある。

わたし/あなたも車を運転する人なら誰でも知っている現象だが、車道には、挑発とまではいかないにしても、じつに微妙な加減/不可解/緩急で苛立たせよう、あおりを誘発しようとしてくるドライバー=劇場型ドライバーというのがいる。

それは未必の故意というより悪意的無邪気によるもので、あいてが引っかかると、じぶんは直ぐさま被害者にまわる→なにしろそれが目的なわけだから。この無邪気・目立ちたがり・被害者──の3要点を揃えるとYouTube世代の劇場型人間ができあがる。

たとえばワンオペという言葉がある。ワンオペとはone operationという和製英語で「1人で切り盛りする」とか「孤軍奮闘する」の意味。もとは飲食店でアルバイトの補填できないときなどに使われる言葉だったがYouTuberが歪曲して使い始めた。
すなわちダンスを披露したり楽器を演奏したり──などの特別な芸をもたないYouTuberが「1でやること」を芸=劇場化にするために使い始めたわけ。

がんらい小店舗やキッチンカー/フードコートや閑散時などは1人でやるのがふつう。また父/母どちらかがいないときの育児も1人でやるのが、人類の創始からしてふつう。ところが、それを芸だと謳ってしまった。(わたしはそれをたいへんなことではない──とは言っていないが、それをたいへんなことだとは今まで人類は言ってこなかった──という話。)

個人的な肌感だが、いまの社会には、なんにせよ、みずから誘因子になっておきながら、(謂わば)みずから路上に大の字になっておきながら、それによって引き起こされた事故を咎める「劇場傾向」「悪意的無邪気」をもった人が多い。(気がしている。)
おそらく前述した投稿者は恐怖なんぞ感じちゃいない。むしろ投稿の案件化に小躍りしたことだろう。

ニュアンスが伝わるかわからないが、劇場型人間のばあい、生産性や合理性がまったくなくても、立場や名分が成り立つ。精神(根性)論好き。承認を食べて生きられる。謂わば「クオリティの低い仕事をしているのに情熱大陸に出ている人」みたいな人。それを劇場型人間と言う。

このスタンスは日本の映画監督にも当て嵌まる。
無邪気。作品よりも自分が目立ちたい。被害者的なポジショニング=自分自身がドラマのなかに居たい気配。

悪例として再三挙げてきた「21世紀の女の子」というオムニバス映画がある。今の日本映画としてシンボリック(象徴的)なので、しつこいほど何度も引き合いにしている。そこに群がった監督は全員が劇場型。クリエイティブでもプロダクティブでもない、自己顕示をスタンスとしている。

21世紀の女の子は、若い女性監督のオムニバス作品。
それ(若い女であること)がイニシアチブなり優位点なり卓異なものである──という摩訶不思議なしのぎが成り立つのはこの星で日本だけである。
とうぜん、若い女(の子)がつくったのだからクオリティに関しては大目に見てね──という趣意をはらんでいることは言うまでもない。
ご存知のとおり日本では「女の子」は、そういう意味=未熟を許容されるべき申し合わせ、として使われる。言っていることが解るだろうか。この国では池田エライザが監督をつとめた映画に酷評で突っ込む人は珍しい。

21世紀の女の子は技量として稚拙であるだけでなく、むしろこの子たちはどうやって昭和を知り得たのかと思える陳套な発想に占められ「昭和アナクロニズムの女の子」とタイトルすべきオムニバス映画だった。これは冗談でも、うまいこと言ったでしょ──でもなんでもない。ほんとに昭和アナクロニズムの女の子が撮ったオムニバス映画だった。

本作の監督はそのなかの1人。いい映画つくってないのに、どんどん出世している。ちなみに21世紀の女の子の中には「教授」に褒められた子もいた。たぶん生涯、むかし教授に褒められた人、だろうなと思う。映画をつくっていても、つくっていなくても。

本作は田中みな実が主人公をつとめたことが謳いになっている。
以前アベマ系のドラマで眼帯したこの人の「狂気の演技」が話題になったことがある。
じぶんは社会派ではないし巷の消化型ドラマにことさらマジになるわけでもないが狂気の演技ならば田中みな実とシャイニングのジャックニコルソンはならべて語ってもだいじょうぶなのかという至極そぼくな疑問をもった。
なにしろ狂気の演技で話題となる前にこの人はぶりっ子とみなされていた。ぶりっ子は古い言葉だが、劇場型人間の原型といえる。

つまり長々前置きして何が言いたいのかというと──この映画「ずっと独身でいるつもり?」は劇場型人間の監督が、劇場型人間の女優田中みな実を使い、劇場型人間「本田まみ」を描いている。ってこと。
その三つ巴の「わたしをみて」感。──に耐える映画だった。

わざと不理解な夫を描いているのは解っているが、徳永えりの夫→子育てしない夫は父親ではない。虐げられる妻を見せつけられるのは不愉快。市川実和子の元彼→ナッツアレルギーを神経質とは言わない。本田まみの彼氏だって、ぜんぜん本田まみの心情を理解していない。実家の父母だって、父に隷属している母──に描かれている。
またパパ活のような下性なシゴトをどうしようもなく吹き寄せられてやらざるをえないというような悲哀譚にしないでほしい。

つまりこの話に出てくる男たちは全員がばかに描かれている。反して女は全員が被害者に描かれている。そうやって男をことさらばかに描いている時点で、この原作も映画もぜんぜん現実見ていません。女が描くフェミ系の作品に、男が全員ゲスに描かれていたら、そりゃフェアじゃない──という話。

言ってること解りますか。海外の映画では、かわいそうなんだぞや被害者なんだぞを主張するためにムリムリに周囲や世間を横暴/障壁/無理解/敵対に描く──をしません。それやってる時点ですでにアウトオブレベル。

都市型の独身女の憂鬱──旧弊な主題(ほんとに古くさい話でした。)を器用でも職人型でもない桐やめに出てくる高校生映画コンクールの前田涼也と同程度の田舎者が撮った消化コンテンツ。
言うまでもないが田中みな実ってことで「女の子」同様=未熟を許容されるべき申し合わせ──の不文律がある。映画と言うより「ノーバンで投げた」とか「手ブラ」とかの表題とおなじ釣り。

海外映画と日本映画のあいだに横たわる腰を抜かすほどの格の差について、いつもどおりの酷評をしたわけだが、よく公人やフォロワー背負ってる人は、ひととおり腐したあとに「酷評は~のためを思って」と場しのぎな保身をするのだが、わたしは日本映画のためなんぞ思ってはいません。思っているわけなかろうが。むしろいっぺん滅んでみたらどうだろう──日本映画。

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津次郎