劇場公開日 2020年1月17日

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「どこまでが実話なのか」花と雨 りょうたさんの映画レビュー(感想・評価)

どこまでが実話なのか

2020年1月12日
PCから投稿
鑑賞方法:試写会

偏ったポップカルチャーの知識しか持っていないと、評を書くのに苦労するジャンルがある。音楽映画がその最たるものだ。歌の善し悪し、楽曲の善し悪しの判断が出来ない分、圧倒的全体を占める要素を捨てて評に挑まなければならない。これを純粋に映画として評価できる優位性と捉えるか、もしくは作品の魅力を理解する要素を減らしてしまっていると捉えるかだが…自分は圧倒的に後者だと思っている。よって、知識がほとんど無い自分がこれから展開する論は、ヒップホップ弱者が書いている雑記くらいに思って貰えると丁度いいと思われる。
自分は今作をSEEDAのことを知って見た訳では無い。鑑賞前にザッと調べただけで臨んだため、彼の楽曲やラッパーとしての経歴は全く知らなかった。今日(12/17)の試写会でも、いわゆる”ヒップホップ好き”そうな人はチラホラ目につく程度で、大半は自分と同じ場所にいる人達だったように思う(思いたい…仲間が欲しい)。ただ実際見た印象としては、SEEDAに関する予備知識を事前に入れずとも問題ない作品だった。むしろ知識がある方が見た場合には、批判が出そうな部分もあったように見える(これに関しては有識者の意見を聞きたい。もしくはこのタイミングでSEEDA本人の回顧録などを、パンフレットなどに掲載して欲しいくらいだ)。前述したように、自分は今作を音楽映画として見ることを出来ず、ロンドンでの生活から異国=日本に放り込まれた青年の成長譚を見るつもりで挑んだ。結論としては、ある重大な問題によって、決して手放しで誉められる作品ではなかった。

冒頭、映画が海岸沿いにある風力発電所を空撮で捉えたショットから始まる。非常に綺麗でスケール感のある画でまず意表を突き、徐々に道路を走る車へカメラが寄り、遂に運転席の主人公(笠松将)を映す。これは明らかに意図的なショットで、つまり今作は広い世界の話ではなく主人公の青年の“閉じた世界”が舞台であるという宣言であり、かつ物語がここに戻ってくるということの説明でもある。上手いし画もカッコイイ見事な幕開け。実際今作は、殊撮影に関して本当に素晴らしい瞬間がいくつもある。監督の土屋貴史は、Perfumeや水曜日のカンパネラのMV撮影で名を上げた方だから、やはり力が入っているところだろう。東京の喧騒を捉えた、夜に光る電光掲示板とその下を歩いていく人々、その中に溶け込むようでいて座り込んで止まっている主人公、その二つをすごい量のカットを織り込みながら見せる編集も、やはりスクリーンで見ると映える。その他の場面でもアイデアの凝らされた箇所が多く、特に終盤、完全に一人称主観で家の中を回っていくあるシーンには唸らされた。自分の主観、という絶対的安全圏(もしくは牢獄)からはっきり投げ出されるという突発的な突き放し。主観と客観がシームレスに、そして暴力的に切り替わるその場面は、物語中の主人公と劇場にいる観客の双方にショックを与える。撮り方はシンプルかもしれないが、その効果は絶大だ。基本的な被写体を主人公に絞り、彼の背後から、前方から、周囲を取り巻く様々な事象を切り取っていくのも、作り手側の意図を考えるに的確な演出といえる(少し意味合いが違うが、人物の寄りが多い点で「サウルの息子」の撮影を思い出したりもした)。閉じた世界、若者故の狭い視点というのが表現されている点でも、“青春音楽映画”というジャンル定義にふさわしいものを撮れているようにも見える。

土屋監督は、MV出身。今作が長編映画初監督となる。MV出身の映画監督には、素晴らしい作品を作った人がたくさんいる。代表的なところで言えば、デビッド・フィンチャー、マーク・ウェブ、マイケル・ベイなどが有名だ。鮮烈な映像イメージ、細やかな画の構成(ベイにはない)、滲む独特の色…画で魅せることが求められる映画撮影において、これらは間違いなく力になる。土屋監督にもこうした才覚があるのは、自分が前述した様々な場面からも明らかだ。これが初監督作なのだとすれば、次回以降にも期待を持った人が多くいるはずだ。ただ、今作に関しては、MVから映画への過渡期故の粗が散見されてしまった。

特に(これは監督一人のせいでは絶対にないが)音楽映画としてのストーリーの盛り上げ方、基本的構造のバランスが妙なことになっている。
例えば、「天使にラブソングを…」を思い出してほしい。主人公は、社会の闇から教会に逃げ込み、そこで別の可能性を見つけて成長する。そこで聖歌が同作の音楽的側面を担うが、構成としては、①聖歌への偏見と理解、②仲間との練習・鍛錬、③挫折・危機の到来、④大団円、というようなザックリとした起承転結が用意される。実際他のジャンルの映画・ドラマでもこの構造(もしくはその変形)の見立てが適用できる。もちろんこれはオーソドックスな物語構造だ。全部が全部これに従っていたら似たものが頻出するようになるから、逆に突飛な構成の素晴らしい作品が型を破って現れ、観客を楽しませてくれることもある。そして今作も、その“型”を破ることを目指したと言うこともできるが、だとするとおかしなところが出てくる。
主人公が日本に来て、日本のラップに初めて向き合うその瞬間(①に当たる)、初めてラップが披露されると思うと、そこは少しユーモアを含んだ編集で省略する。ここで多くの観客は思ったはずだ、「え、ラップ見せないの?」。ただ、この時点で自分の頭をある考えが過った。これは、作品の最後でラップのシーンがちゃんと用意されているのだと。ギャレス・エドワーズ版「ゴジラ」で、ハワイでの決戦シーンを省略したのと同じだ。最大の見せ場は、作品の最後まで温存する。それはクラブでのラップバトルシーンで確信に変わる。前半で登場したいかにも2000年代初期的な不良の青年が、主人公と同じラッパーとして壇上に上がる。前半これでもかと憎々しげに描かれたその青年とマイクで一戦交えるわけだが、ここでも主人公のターンをすべて見せない(その後不良青年に廊下で追いつめられるシーンのヤダ味。言葉が武器の主人公のことを考えると、痛いところを突かれる素晴らしい場面だ)。さらにはいけ好かない、これまたいかにも軽薄で二枚舌の音楽プロデューサーに見放されるという展開も加わり、心情をぐちゃぐちゃにして、ストレスを掛けまくる。つまり、観客・主人公双方に鬱憤を溜めて、溜めて、溜めた先に開放!というカタルシスを生むためのお膳立てを丁寧に踏んでいるのだ。その前後に描かれる“バイト”の日々も含めて、ここまでは正直本当に面白い。自分の知らない世界、実は地続きに広がっている裏を垣間見る映画的な快感。「ウルフ・オブ・ウォールストリート」や「トレインスポッティング」などの感覚に近い(特に後者はかなり意識されていると言える)。それらの作品の、社会的に悪とされる方法で金を稼ぐ若者の日々を、日本で描いたらこうなるのか…果てはこれが日本でやられているのかと興味深く思いながら鑑賞できる。
主人公は、ラッパーとしてどん底まで落ち、もともとバイトだった売り子に本腰を入れていく。これもまた、最後の盛り上げのためのダウナーな時間帯として機能している。ここまでの約60分、まず音楽映画として周到な準備・助走がなされているのだが…ここからが問題だ。

ここまでの助走、溜め、ストレスを観客に用意しておきながら、結局主人公が人前でラップを最初から最後まで披露するシーンがない。つまり、明快なカタルシスがないのだ。

前述した不良青年や音楽プロデューサーが、アルバムを発表した主人公をどう見るのか、もっと言えばぎゃふんと言わされる場面が一切なく、彼らは前述のシーン以降全く登場しなくなる。確かに、今作が実話をベース(アルバム「花と雨」を原案)にしていると事前に宣伝している作品であるから、これが現実だと言われればそれまでだ。でもこれは映画だ。現実を見せながら、同時に観客を満足させることのできる夢の媒体である。バトルで蹴散らすような展開でなくとも、主人公のステージを見てどんな反応をするかくらいは脚色しても問題なかったはずだ。しかしそれはおろか、今作は「花と雨」の楽曲がフルで流れるシーンすらない。主人公の成長や葛藤は、確かに監督が舞台挨拶で仰っていたように、ほとんど「できる限り台詞に頼らず、映像で表現」出来ている(心情をもろに口に出している瞬間もあって辟易するが、先日見たある作品と比べたら数億倍マシだ)。ただそれも、姉との約束を守るという個人的な心情面でのものがほとんどで、劇中プロに指摘されているラッパーとしての技術面では、どこで成長したかがわからない。最後客を前にしているほんの数十秒で、観客側にラッパーとしての成長を見せることが可能だと思ったなら、それは大きな間違いだ。これでは、ラップとは技術でなく精神論で片付く何かという解釈まで成り立ってしまいかねない。

また、今作は前述の“バイト”描写についても、ラッパーというアーティストのイメージを悪い方に向けさせるバランスとなっているように見える。アメリカやイギリスでどうかは別として、日本では違法な薬物を売りさばく若者。前半から中盤までの描写は楽しいが、その稼業からの足を洗うタイミングが何より不味い。興味がある方は実際に見て確かめてほしいので詳しくは避けるが、あの描写では元の原案たる「花と雨」というアルバムの存在まで危ういものとしている。

もちろんこれも、「これが事実だ」と言われたら何も言い返せない領域の話ではある。ただの音楽映画でなく、より志の高い芸術作品を目指したというのならそれには間違いなく成功している素晴らしいビジュアルイメージを持った作品だし、姉と弟の絆を描いた非常に個人的なドラマとしても、後半の失速を無視すれば上手くまとまっている。ただ、それが一ラッパーの半生を描く作品として、ふさわしいアプローチだったのかは自分にはわからない。よりテクニカルにより熱さを織り込み、その隙間から秘めた感情が発露し、最後には溢れ出る。それが「花と雨」というアルバムの、ラップに命を懸ける人々の楽曲の成り立ちではないのか。それがただ、自分の理想や妄想であるなら、致し方ないことだが。

ここまで色々と書いてきたが、決して悪い映画ではない。鮮烈な映像群とカメラワーク、拙さと勢いと若々しさが溢れる力作である。好みに合うか合わないかは、是非自身の目で確かめていただきたい。

追記:
ビジュアルイメージで、一点だけ苦言を。主人公が大麻の栽培室で寝ている時に見る、ある“ビジョン”があるのだが…あれはいいのか?少なくとも自分が知識として知っている大麻の副作用にあれはなかったが、もしあれが日本人的な感覚からくる表現だとすれば、大いに誤解を招く場面になっていることは確かだ。大麻=危険であれば、今作でそれを吸うラッパーやその他の人を、観客はどう見るだろうか。
後半について。ドラマ的な失速を撮影=見せ方で乗り越えようとする姿勢には好感が持てる。ここでラッパーとしての技術的な突破口があればよかった…。ただ、履歴書の場面は良かった。型にはまろうとして、でもはまらない。それが映像で表現できている(涙は過剰だが)。

りょうた
らーさんのコメント
2020年1月22日

ていうかコメントするならちゃんと星つけてくださいよ。
あなたの謎のポリシーゆえにこの作品の平均星が下がって、そのせいでみるか迷った人が見ないことにしたら悲しいじゃない。
星ゼロの最低映画と判断してるなら別にいいんだけど、よくわからん謎ポリシーは明確に作品に悪影響与えると思うよ。

らー
らーさんのコメント
2020年1月22日

ミュージシャンの自伝もの、しかもハスラーで不定職者の人生、っていうテーマのハマりどころをわかってないとこういう見方になっちゃうんだなぁ。
パンフレットで監督や主演俳優も言ってたけどさ、役者がミュージシャンの物真似をどれだけ上手くやったとして、誰がそんなもんわざわざ見たいの?(いや、クイーンの映画とかヒットするくらいだから、以外と需要あるのかも笑)
てか花と雨のちゃんとした曲聴きたいならCDかストリーミングでお願いしますよ。わざわざ映画館に中途半端な物真似見に来てないですよ。
更にそこにライバルたちのアルバムへの反応(笑)みたいな余計な創作とか絶対いらないから笑。ベックか笑。
真面目な話、まだ何者でもない自分がどこまでやれるのかっていうのを見つけていくテーマの映画なのに、そんな陳腐なリアクション勝手に付け足されたら興醒めもいいとこでしょ。ベックか。
そういう意味で、映像的にも脚本的にもリアルっぽさを突き詰めて、かつ叙情的なバランスもある素晴らしい青春映画だったと思います。

らー