ジョーカーのレビュー・感想・評価
全387件中、201~220件目を表示
理解できないさ
社会的弱者が、悲惨な状況の中でもハッピーに生きようと頑張っている中、自分の差別や非寛容に気づかない群衆たちによりどんどん追い詰められていく。
当人たちは面白おかしくやっているだけと思っているのだろうがそれがやられた側がどのように感じでいるのかを理解できない。
追い詰められた挙句、アーサーはジョーカーとなる。
最後には貧民層に祭り上げられながら悪のヒーローとなる。
電車で警官をリンチしたり最後のシーンで街を壊す民衆が、ジョーカーに賛同してるけど、ジョーカーを作り出した本人でもあるかも知れんってことをもうちょっと明確に書いて欲しかったと思う。
いじめの傍観者は加害者であるのと同じように、また加害者は自分の加虐行為に無自覚であるように、ジョーカーをもてはやしている民衆は、自分たちが弱者に対して加害者になる可能性があるということ、また思慮が足りてないのに、声が大きいことに賛同して行動に出ることがどれだけ愚かだということをもっと描いて欲しかった。そうしなければただ、ジョーカーがかっこいい、というような感想を抱いてしまう人も多いと思う。
最後のジョーカーのセリフ、
理解できないさ
に全てが詰まっているとおもう。
映画は少し冗長でした。演技はとてもうまかったです。
5つの謎を検証
※ネタバレを含みます。
※ストーリー解釈がメインなので、
映画を見てから読んでください。
とにかくホアキン・フェニックスの
演技が素晴らしい作品だったと思います。
後世に残る名作だと思います。
最後に大きなオチがあるので、
まず主人公アーサーの物語をおさらいします。
【ネタバレを含むあらすじ】
弱者に不寛容な生きづらい社会。
脳の一部を損傷し笑いが止まらなくなる
病気を抱えた主人公は
人々に馬鹿にさられながらも
「狂っているのは自分ではなく世間の方だ」
と信じて、病弱な母親を介護しつつ
貧しく苦しい生活を健気に生きる。
夢は人を笑わせる
スタンドアップコメディアンだが、
毒舌や皮肉の才能はなく
人から笑われるピエロの仕事をしている。
ある日、電車内でエリート会社員3人に
ピエロ姿を馬鹿にされた上で暴行され、
持っていた銃で3人を射殺してしまう。
罪悪感があるものの、
なぜか気分が晴れやかになる。
貧富の格差が広がる中、
ピエロ姿の犯人は英雄視されるようになる。
主人公は定期的にソーシャルワーカーに会い
精神薬を服用していたが、
社会福祉縮小のためサービスが打ち切られ、
薬を貰えなくなり、妄想を見るようになる。
そんな折、母親の手紙を読んで
街の有力者トーマス・ウェインが
実の父親であると知り、
異母弟であるブルースに会い
ウェインに確認しに行くが、相手にされない。
自分の出生について知るため
母親の過去を調べようと、犯罪者を収容する
アーカム精神病院でカルテを奪う。
すると自分は養子で、幼少時に
母親とその恋人から虐待を受けており
自分を苦しめてきた脳の障害は
その後遺症だと知る。
狂っていたのは世間ではなく自分だった。
人生を破滅させた母親を優しく世話してきた
自分の人生は喜劇である。
主人公は母親を殺し、
ジョーカーとして生まれ変わる。
自分を陥れた同僚を殺し、
テレビのトーク番組に出演し
会社員殺害を告白。
殺害理由は音痴だったから。
(ジョークのつもり)
そして昔から父のように憧れ
尊敬していたトーク番組司会者を
生放送中に射殺する。
(最高のジョークのつもり)
(※killing jokeと呼ばれています)
街は貧困に喘ぐ暴徒で溢れており、
ジョーカーは彼らのシンボルとして
崇められる存在となる。
そして母親と同様、
アーカム精神病院に収容され
日々妄想を見て過ごすことになる。
これがのちにバットマンの最強の宿敵となる
ジョーカーの誕生秘話である。
【5つの謎を検証】
①どこまでが妄想でどこからが現実か?
いわゆる「信用できない語り手」という手法。
主人公の妄想と現実が入り混じって
境界がよく分からない作りです。
一部トークショーの観客席にいる所と
ソフィとの関係は妄想ですが、
ここでは、冒頭からすべて現実で
「最後に精神病院で思いついた何か」は
妄想である、という路線で進めます。
その「何か」については⑤で取り上げます。
②ジョーカーはあのジョーカーなのか?
主人公はバットマンの最強の宿敵である
狂人ジョーカー自身なのか、
それとも主人公に影響を受けた
暴徒の一人がジョーカーになるのか。
最後に主人公を車から引きずり出して
祭り上げた仮面の若い男や
ブルース・ウェイン(のちのバットマン)の
両親を殺した仮面の若い男が
あのジョーカーになるのだろうか
と一瞬思いました。
主人公に影響を受けた
暴徒の一人があのジョーカーになり
第二第三のジョーカーが生まれていく
という面白い発想かと思いましたが、
やっぱり主人公が
あのジョーカーという気がします。
その理由は③で説明します。
③なぜ主人公はジョーカーになったのか?
この作品を見た人の多くは
誰でもジョーカーになり得る、
弱者に不寛容な社会こそが
ジョーカーを生み出したのだ、
という論調だと思うのですが
冷静に考えるとそうじゃない。
ジョーカーを生み出した原因は
紛れもなく脳の一部の損傷で、
そして福祉サービスの打ち切りにより
精神薬を飲めなくなったこと。
なぜ脳を損傷したかというと、
ほかでもない今まで尽くしてきた母親と
その過去の恋人から虐待されていたからです。
弱者に冷たい社会が悪い、
自分と母親は健気に生きる
清く正しい貧困層だ、と信じてきたのに
実際は妄想症のある毒親とその子供だった。
それを知って、客観的に見て
自分の人生は喜劇である
と主人公は感じました。
そこからはほとんどあのジョーカーです。
一番輝かしい舞台はトークショー出演です。
ピエロのメイクをして
エレベーターに乗るシーン、
階段を踊りながら降りるシーン、
トークショーで紹介されて出て来るシーン、
めちゃくちゃかっこよかったですね。
この時、主人公は自殺するつもりだったので
最後の晴れ舞台への緊張感からか
ジョーカーとしての自信からか
別人のようでした。
そしてここまで容赦なく
「ジョークとして」人を殺すのは
主人公があのジョーカーである
根拠となると思います。
社会に対しての怒りなど、
簡単に説明のつくありきたりの理由では
あのジョーカーにはなりません。
という訳で、
社会に不満を抱いている自分も
もしかしてジョーカーになり得るかも、
と恐怖を感じている方、大丈夫。
そんなことではジョーカーにはなりません。
④ブルースとは異母兄弟なのか?
主人公の母親は30年前に
ウェイン家で働いており若く美しく
ウェインからラブレターをもらっている。
(当時の母親の写真の裏に
「君の笑顔を愛す。TW」と書かれている)
母親が主人公と養子縁組をしたのは
ウェイン家で働いている時だった。
精神疾患のある独身女性が
養子縁組できるわけもないので、
この時は精神疾患(妄想症)がなかった
と思われます。
その後、ウェイン家を追放されている。
母親は妄想症になり、
恋人の男性に暴行を受けながら育児放棄、
息子は恋人に虐待を受け脳の一部を損傷する。
そしてアーカム精神病院に入院する。
この事実から考えて、
主人公はトーマス・ウェインの息子(落胤)で
ブルースとは異母兄弟である
という可能性は残されていると思います。
ウェイン家は養子縁組という形式を取って
息子を母親に引き取ってもらった。
ちゃんと子育てをするようなら
資金援助をしようと思っていたけれど
母親が暴力男と一緒になり
息子を虐待したので関係を断ち切った、
ということだったかもしれません。
母親の精神病院のカルテをじっくり検証したい
と感じました。
⑤最後のシーンはどういう意味か?
この作品はバットマンを知らなくても
楽しめるようになっているのですが、
それだと可哀想な犯罪者の物語で終わります。
もちろんそれだけでも相当クオリティが高く
映画館で見る価値がありますが、
バットマンとジョーカーの
設定を知っている人は
最後のシーンでもっと楽しめます。
主人公は精神科医と話しているうちに、
路地裏で両親を殺された
ブルース・ウェイン少年が
将来バットマンになって悪と闘う
というジョークを思いつきます。
また、ジョーカーの設定として
ハーレイクインという元精神科医の
恋人がいるのですが、
それは精神病院での面談によって
思いついたものと読めます。
つまり
バットマンシリーズの物語の
生みの親はジョーカーである、
というお洒落なオチなのです。
そう言われてみれば、
エリート会社員の殺害はどことなく
バットマンを彷彿とさせます。
勧善懲悪の自警団で悪を滅ぼす。
もともとバットマンシリーズでは
バットマンが正義の味方になったり
復讐の鬼になって悪に染まったり、と
単純な二元論では終わらず
バットマンとジョーカーは正反対に見えて
狂気を軸に同じようなことをする二人
として描かれています。
それもそのはず。
主人公アーサーは自分の経験を元に
自分の表裏一体の化身として
バットマンを誕生させたのです。
凄いオチです。
これだけ陰鬱な内容なのに
粋なコメディ作品のように見せるのは
「笑いとは何か」をずっと考えてきた
コメディ映画の監督だからこそ
撮れた気がします。
【ジョーカーについて】
ストーリー解釈は以上ですが、
やっぱりホアキン・フェニックスの
演技がとんでもなく素晴らしい。
ジョーカーは色んな俳優が演じていて
「バットマン」のジャック・ニコルソン、
「ダークナイト」のヒース・レジャー、
「スーサイド・スクワット」の
ジャレッド・レト、
全て素晴らしいと思います。
ヒース・レジャーが
撮影後に亡くなったこともあり、
ジョーカー役を演じるのは
悪魔に魂を売るような行為とも
言われています。
ホアキン・フェニックスの
鬼気迫る迫真の演技。
ジョーカーを演じることへのハードルを
また一段上げました。
この演技を見るだけでも、
十分劇場に足を運ぶ価値があると思います。
理屈なき「怒り」を肯定してくれる危ない映画
※『JOKER』が強烈な映画過ぎて、初めてレビューを書きたいと思ってしまいました。かなり拙く、個人の解釈に寄っています。
今作『JOKER』を観て、何故ジョーカー(アーサー)に感情移入してしまうのかわかりました。
それは理屈なき「怒り」を肯定してくれていたからだと思います。
アーサーはあまりにも可哀想で圧倒的弱者でした。そんなアーサーを観て沸々とこのゴッサム、世間に対する不満が募っていきます。でも、アーサーがジョーカーに生まれ変わっていく瞬間にこの不満が発散されてしまいます。とても残虐なやり方だとしてもです。
アーサーがテレビショーに出て司会者を銃殺する前に、「主観」で観ればいい、笑えるか、笑えないか的なことを言っています。
この意味合いは、自分の人生悲劇だと思ってたけど、実は喜劇だったとアーサーが主観してるという意味合いでした。
でも、この部分は色んな解釈ができると思います。酷いことを言われた、酷いことをされたと思ったけど、世間は気にしてくれない、大したことだと思ってないから、「怒り」を押し殺そうとしてたけど、「主観」で観て、解放するべきだよと耳元で囁かれている気もしました。
理屈より自分がどう感じたか。
かなり危ない映画だと思います。
自分もどこかで爆発しようと考える人もいるでしょう。でも、アーサーが劇中で「怒り」を体現してくれて解放感を感じる人もいると思います。ある意味、抑止力的な映画になってるかもしれません。
ストーリーとしては普通だと思いますが、テーマ性が強い作品。
一つの映画としても面白いし、ジョーカーのオリジンとしても面白かったと思います。
喜劇の上で生まれたジョーカー
アメコミ原作の映画とは思えないほどの作り込まれた作品だった。
現実と幻想との境界線が消えていって、どこまでが現実だったのかがわからなくなる。
特に物語のラストシーンを見て、今まで見ていたものを全てを疑い始めてしまった。
また、今回のホアキンが演じるジョーカーは今まで他の役者が演じていたジョーカーと違い、悪のカリスマ性は無い。偶然と環境によって、アーサーの意思とは関係無くジョーカーという存在が、中身の無い偶像として貧困の人々から崇拝される。
アーサーは誰かに自分の存在を認めてもらいたい願っているのに、それとは裏腹に次第に孤独になっていき、最後には混沌の権化であるジョーカーとなってもアーサー自身は誰からも見てもらえない。まさにアーサーは道化そのものであり、アーサーが辿った人生は喜劇であると言える。
これ程難しい役を見事演じきったホアキンは最高の役者と思う。
ジョーク
お金持ちの家に生まれた
笑わない男の子ブルース。
秘密兵器で世界を平和にする物語。
貧しく笑いながら生きて
愛するものを失い
精神病院に閉じ込められる物語。
どっちがジョークなんだ。
どっちが妄想なんだ。
たぶん理解できないさ
「自分の人生は喜劇だ」 「ジョークを思いついたんだ、君には理解でき...
「自分の人生は喜劇だ」
「ジョークを思いついたんだ、君には理解できないよ」
この2つの言葉に全てが詰まってて震えた、泣いた。
喜劇だと思うしかない、彼の追い詰められた孤独と、それを同じくする者しか理解できないであろうという言葉。
美しいものを愛でるとか大事なものを大切にすることができるのは、それを持ってる人間だけなのかもしれない。
正論を言えてそれを正しく守れるのは、自分が守られた所にいて実行できる環境下だからなのかもしれない。
「正しいこと」は所詮「世間一般の求める正しい姿を守れる立場にある人間が使えるもの」なのかもしれない。
初めは銃を手にした時「だめだよこんなの」って言える人だった。でも真面目に生きようとしても虐げられ続けてそのせいで損をし続ける人生だったら、真面目でいるのは馬鹿らしくならないか?
正気を保ったまま誰にも愛されてなかった自分を受け入れられるか??
自分に当たり前に向けられる悪意や利用や侮蔑や嘲笑をただ黙って受け入れられるのか??
ジョーカーのやったことは100%悪いことだ。
だけど彼の気持ちが理解できてしまう。
テレビで語った彼の言葉に泣いてしまった。
そしてそれを理解できず笑うのが一般人だ。
この映画でまざまざと、正しく生きることは、正論は、絶対ではないのだと教えられる。
アーサーへ「エンジョイ」
ストーリーと演技の圧倒的な説得力と納得感でつじつまがあいまくる。しょうがないよ、アーサー、がんばったがんばったがんばろ 。
天気の子の音楽とストーリーは問答無用で盛り上げてきて、JOCKERは問答無用で盛り下げてくる。音楽こわい。アーサーの置かれてる環境が自分と似てるからずっと怖い。ずっと、これずっと引きずって生きてくやつだ。ハッピーエンドが救い。エンジョイ。
ジョーカーの仮面を被った現代社会の絵画的メタファー
サスペンスのように明確な客観的筋書きがあるのではなく妄想と現実の境界線が曖昧な主観的世界を観る。プロット自体は予想外の展開はなく、ある程度予測がつくもので社会的弱者が世の中の不条理に絶望し、復讐を図るという筋書きがありきたりに見えた人が多いのも頷ける。これを小説にしたところでよほどレトリックに腕のある作家でなければひどく退屈なものになるだろう。
だが、演技や音楽そして映像による味付けはこの主観を増幅させ、ありきたりな筋書きにずっしりと重みを加えてくる。観客の中には二回目は御免だと感じた人も多くいたと思う。特に主人公と境遇の近い人にはなかなか堪えたのではないだろうか。
さて、ここでのジョーカーはダークナイトでの彼とは別人である。バットマンビギンズを観ていれば明らかに繋がらないことがわかる。だがバットマンビギンズとこの映画には共通するシーンがある。それはバットマンことブルースウェインの両親がなもなきチンピラに撃ち殺されるシーンである。ビギンズを観た方はジョーカーでの同じ場面を観て如何感じただろうか?私は180度違う印象を受けた。ビギンズ鑑賞当時中学生だった私は不条理さ、やるせなさを覚えたが、今回はあろうことか「ざまあみろ」と感じたのだ。弱者が強者を叩く爽快感は、現実の社会でも多くを虜にしている。日本においても「上級国民」という言葉が蔓延り、法的手続きを蔑ろにして私刑を実行しようという者が現れる始末である(某○塚幸三事件など)。ピエロの仮面を被った集団は正にインターネット上のあなたでありうる。
因みに、ジョーカーのオリジンは原作でも複数ある。アメリカンコミックでは著作権は出版社に帰属することが殆どなので、各作者が自分なりにジョーカーのオリジンを描くことができる。だから、映画の場合も複数の監督がそれぞれジョーカーオリジンを描いてみるというのもありだと思う。マーベルはMCUで広がりを持たせ、成功させたが、DCも上手くやってほしい。ジョーカーもバットマンも好きなので。
初めて映画評論してみたくなったので書きます。
アベンジャーズ インフィニティウォーで、それまで負けることがなかったマーベルヒーロー達は悪の前に敗北する。僕の幼い頃であれば考えられないようなシナリオが現代では受け入れられる時代だ。しかし、残念ながらこれが我々が生きる現代のリアリティである。ヒーローは負けないという幻想は、もはや小学生ですら持っていない。
世の中は不条理に満ち、大抵の努力は報われず、尊い願いは叶わない。嘘つきが得をして、正直者がバカを見る。それがごく当たり前の世の中。
テレビによる洗脳はインターネットの登場により破壊された。芸能界の薬物汚染。政治家達の不正。大企業の隠蔽工作。そして自分達に都合の良いことしか報じないマスメディアの腐敗。それまで信じてきたものに裏切り続けられていた真実を人々は今、知り始めている。既得権益を持ったものは死ぬまで甘い汁を吸い続け、貧しいモノ達は死ぬまで搾取され続ける。この世の中にもはや揺るぎない正義などない。正義と悪は簡単にひっくり返ってしまう。そう、完全無欠のヒーローはもはやどこにも存在しないのだ。
トッドフィリプッス監督、ホアキンフェニックス主演、「ジョーカー」はまさに現代社会への怒りに満ち溢れた映画であるとともに、そこに生きる人々に警鐘を鳴らしている。
人々の不満や鬱憤が肥太ったネズミのように膨張と増幅を続けているゴッサムシティ。そこで大道芸人として暮らすアーサー。
「どんな時も笑顔で人々を楽しませなさい」
という母の金言を胸に、持病を抱えながら誰かを笑わせ幸せにしたいと願うアーサー。しかし、そう願えば願うほど他者は、社会は
、世界は、彼を追い詰め、孤立させていく。たがが外れた彼はやがて、マレーフランクリンショーでの凶行へと及ぶに至る。
「人生はクローズアップで見れば悲劇だが、ロングショットで見れば喜劇だ。」この映画のキーポイントとなるチャップリンの名言だ。思い返せば、不良達に滅多打ちにされ顔を歪めるアーサーのクローズアップ(寄り)から始まるアバンタイトルが悲劇を象徴しているのに対し、スラップスティックコメディさながら逃げ回るジョーカーのロングショット(引き)で終わるエンディングはまさに喜劇的表現を象徴している。トッドフィリップスはこのチャップリンの名言を下に映画を作り上げていったに違いない。
さらに、この映画を語る上で参照すべき映画を二つあげるとすれば、それはマーティンスコセッシ監督の「キングオブコメディ」と「タクシードライバー」だろう。
キングオブコメディのパプキンのように中二病的な妄想を肥大化させ、タクシードライバーのトラヴィスのように、女性に対しての過剰なコンプレックスをこじらせたアーサーは、その両方から裏切られ、果てには唯一信じていた母親から虐待を受けていた事実を知る。
それは、宗教のように盲目的にすがるものや信じるものが消滅した現代に生きる我々の持つ絶望感に似ている。それ故に、我々はいつのまにかジョーカーに魅入られ、共感させられてしまう。キリストの復活をモチーフにして、ジョーカーを車から引きずりだし神のように崇める大衆がまさにそれを象徴している。現代はまさに、キリスト(ヒーロー)よりも、アンチクライスト(アンチヒーロー)の時代になってしまった。
この映画は怒りそのものである。右傾化し、自国の利益最優先で突き進む大衆ポピュリズムはもはやトランプ政権だけの代名詞ではなくなった。もはや世界中にその空気は蔓延していて我々を確実に蝕んでいっている。もはや他人を思いやる余裕はない。誰もがクローズアップで他者と関わろうとせず、ロングショットで傍観を決め込んでいる。このままでは、現代社会は本当にジョーカーを生み出すだろう。かつてのヒトラーのように狂信的な信者達を携えて。この映画はジョーカーを賛美する所か、その現状に対して高らかに警鐘を鳴らしている。
もうすでにその狂気の目と銃口は例外なく我々の背中にも突きつけられているのだと。大丈夫、これは全て喜劇だと、不気味なダンスを踊りながら、ジョーカーはもうすぐそこまで来ている。あの不敵な笑い声がもう耳にへばりついて離れない。
絶対に見逃してはいけない問題作にして、大傑作である。
アーサーは笑う、悲しみを胸に隠して
アカデミー賞最有力とも評される映画『JOKER ジョーカー』を見て来ました。
映画『バットマン』シリーズのスピンオフ、敵役ジョーカー誕生の物語です。
ほとんど『バットマン』シリーズを見ていない私ですが、本編を見てなくても楽しめると聞いたこと、Twitterで作品&主演ホアキン・フェニックスの評判が高いので気になって見に行きました。
見る前から結末は分かってるはずなのに・・・
とんでもない映画が生まれました!!!
興奮で鳥肌!!!
本当に見て良かったです
語りたいことはたくさんありますが、
とにかく!主演ホアキン・フェニックスが凄いすぎる!
演技が上手いとか、役になりきってるという次元を超えています。
もう、アーサー(ジョーカー)が乗り移ってるとしか思えない・・・
ホアキン・フェニックスの役作り、半端ないです!!!
コメディアンを夢見る心優しいアーサーが傷つき、殺人鬼ジョーカーとして悪に染まっていく(目覚めていく)様子は、とてもとても心苦しく切ないものでした。
起きる出来事がアーサーの妄想なのか、それとも現実に起きたことなのか、ストーリーが進むに連れて混乱してきますが、ここは観客に解釈を委ねているのでしょうか?
そして、アーサーが悪いことをしてるはずなのに、つい応援してあげたくなるのは、なぜなんでしょうか。
(ここが賛否両論を呼ぶ理由だと思います。残酷なシーンも多いですし、R15指定は甘い、R18指定にすべきかと)
アーサーがジョーカーとしての悪に目覚めた時、ホアキンが演じるアーサーの顔が、前作『ダークナイト』で故ヒース・レジャーが演じたジョーカーに見えてくるのも不思議でした。
あのピエロメイクをしていなくても、表情がジョーカーそのもの。
あーこんなに感想を誰かと語り合いたい映画を見たのは久しぶりです。
介護問題に弱い者イジメ、仮面を被った匿名性の怖さなどなど・・・
作品の時代設定は(たぶん)70年代のアメリカをモデルに描きながら、ストーリーに込められたメッセージは、最近の香港デモや、今の日本にも通じるものでした。
映画『ジョーカー』
あっぱれです!!!
アカデミー賞、取って欲しいなぁ
今のアメリカを表現している
誰しもジョーカーに自分の不満を投影し、彼を悪の王と勘違いしてしまう、幻想に抱かれて現実を見ない今のアメリカを象徴している作品だと思う。
彼が優しく生きられる道があったらよかったな…と思いました。全バットマンシリーズ鑑賞済みで今回は挑みましたが、ウェイン夫妻のシーンをあそこに持ってくるのか!と思ってしまった。
素晴らしい
どうしようもないほどの救いの無さ
絶望的とはまさにこの事
誰しもがこうなってしまう可能性を秘めている
彼が本当にジョーカーになってしまうシーンは
もう彼を救う事が出来ない、絶望感と悲壮感で号泣してしまいました。
本当は彼は人を喜ばせたかっただけなのに。
心の病を持っている人には必ず胸に刺さる。
悪いのは監督か、ホアキンか、JOKERか。
ポップでもクールでもないジョーカーがここに誕生した。
ノーランのバットマンでジョーカーを認知した私には、この作品をどう評価すべきか分からない。
まず、ジョーカーを美化しすぎである。病気だし、障害のある貧困層が必ずしもああやって屈折していくわけではないだろう。どんなに酷い境遇だって強く生きることができたはず。それなのに、その境遇を理由に、社会の悪になるのも仕方ない、社会が悪いんだという描き方をされても、こちらとしてはふざけるなである。ああいうやつを持ち上げる市民がいるのも世相なのだろうか。
また、本来のジョーカーのキャラとはかけ離れた(ようにみえる)キャラクターにも納得がいかない。何事も俯瞰していて計算高く、それでいて下品ではない私の知っているジョーカーのカリスマ性が全くもって現れないのだ。一人で銃をもって芝居するのは、タクシードライバーのトラヴィス?自ら髪を染めたりするのも気に食わない。
ティムバートンの描いたジョーカーはアメコミからそのまま出てきたようなポップさが魅力だった。クリストファー・ノーランの描いたジョーカーは悪と善の間で我々を翻弄する生き様が魅力だった。今回のジョーカーの魅力はなんだろう。弱いものには優しいところ?強いものには理不尽に食って掛かるところ?彼が守ったのはしょせん自分のプライドだけのように見える。結局は自分が弱いものと認められるのが嫌で、必要以上に自分を強くみせ、自分の妄想を実現させる勇気はなく、自分の立場を危うくする邪魔者はぶち殺す、そんな身勝手な人間でしかない。そんな自分にもあるレベルの感情を持たぬのがジョーカーだ。私の理解の範疇を超えたところで悪に仕えるのが、ジョーカーだ。
この映画で最も要らなかったシーンは、同じ階に住むアフリカ系女性との日々が嘘だったと発覚するシーン。回想シーンで彼女の姿が消されている映像が流れるがあれは本当にいらなかった。あのシーンが無くても十分にわかるようにできていたし、急に現実に戻された感覚と、さあここで驚きなさい、と言われている感覚に陥った。
この先、ジョーカーと同じ障害や虐待、病気や貧困に苦しむ人々が彼と同じ生き方を見つけないように願うばかりだ。
追記:
最近ホアキンがルーニーマーラちゃんと婚約して嫉妬していたのは事実です。そのため映画が始まった途端から彼に嫌悪感を抱いていたのも事実です。さらに彼の汚さが露出する度に幻滅し、ルーニーマーラちゃんを思い出してしまったのも事実です。不純な鑑賞をしてしまい不本意であります。
しかしホアキンのダンスと表情は圧巻でありました。歩き方から笑い方まで非常に研究されているなと。ピエロになった姿なんて本当にホアキンなのか分からないくらいです。
さらに追記:
随分とこの作品を責める書き方をしたが、つまるところ私は非常に傷ついた。
アーサーがジョーカーになっていく過程で、私は仲間がダークサイドに墜ちてしまうその瞬間をみた気がした。仲間が傷付けられ、社会の隅に追いやられ、ついには居場所をなくし、そんな仲間をみたくなかった。鑑賞中はずっと、彼が何かしでかすまいかと心配でならなかった。何もするなとずっと願っていた。耐えろ耐えろ耐えろと。さらに、笑うすべ、生きるすべとして悪を発見してしまった彼に絶望した。勝てなかったと思った。笑いの力は社会を変えられないし、彼を救えなかった。その事実が示されたとき私はむしろ、この映画に反抗的になっていた。
さらに備忘録:
社会のマイノリティであることよりも苦しいのは、こんな社会でも肯定して生きていかなきゃいけないこと。受け入れて生きていくこと。そこまで描ききれていないと思う。
キリングジョークを読んで:
ジョーカーの本質を知りたくて、キリングジョーク完全版(アランムーア著)を読んでみた。なるほど、わかったことがある。
おそらく、ジョーカーの孤独やら悲劇やらを語るのに、バットマンは欠かせないのでは?正には負が、喜びには悲しみが、正義には悪がなければ、その存在さえも際立たないのでは?というか、在るからこそその間で人は揺れて、学んでゆくわけだと思ったりする。だから、ジョーカー単品でのゴールというのは、本来なくてこの映画はそこ自体が不正解というか、映画単独で成り立っていないように思えてしまうんだよなあ。もうどうすればいいかわからんくらいの悪への対処って、もはや社会には出来ないと思う。今回のジョーカーだって、社会には救えなかったし、救いの場がなかったし。だから、バットマンという絶対的正義がいて、そんなバットマンをも苦しめる悪だから、ジョーカーはこの世界で輝くのではないかとおもうんです。
ジョーカーの狂気があなたを引きずり込む。
非常にクオリティの高い映画だった。
どのレビューを見ても評価は高く、それに値するだけのものであったと思う。
(実際私も高評価をつけた。)
それだけに、このレビューは慎重に進めなければならない。
まず最初に、「バットマン」に対する私の姿勢を示しておくと、
好きだけどそんなに詳しくはない。
これが正直なところです。
もちろん1990年頃のティム・バートン監督バットマンは何度も見たし、いわゆるトリロジーと呼ばれる3部作も大好き。けれど、コミックとかテレビドラマバージョンにはノータッチなので、元がどうとか言う話をされると
あ、そうなんだ。
ということになる。笑
最も好きなバッドマン映画は多くの人がそうであるように、クリストファー・ノーラン監督の「ダークナイト」で、ヒース・レジャーのジョーカーが一番魅力的だと思う。つまり、ごくごく一般的かつ"にわか"らしい立場にいる。このレビューを見て、「にわか分かってねぇわ」と感じるか「ジョーカーをそう受け取ってる人もいるのか」と寛大に捉えて頂けるかは、皆さんに委ねたい。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
ジョーカーの誕生を描くのは非常に難しい作業だったはず。なぜなら、過去に映像化されたキャラクター像が決して統一されていないから。
そもそもジョーカーの正体からして設定が違うし、細かいところを言えば口の傷の有無、肌の白さの原因、あの狂気的な性格でさえ母親が関係しているとか恋人がそうさせたとか、今作が公開される前からファンの間では度々憶測と議論を呼んでいた。
この映画を観る事でその辺りの一つの回答が得られると期待したファンも少なくないだろう。結果から言えば、どんな回答も得られなかった。
いや、映画の中で答えは示されている。しかし、映画観賞後も「こうだ!」とは不思議と言い切れないのである。
一番分かりやすい例が、あの狂気的な性格だ。
あれに母親の存在が絡んでいた事は映画を見れば明らかなのだが、逆に、
「じゃあ彼は母親の影響であぁなったんだね」
と、誰かに尋ねられた場合、きっと多くの人が
「まぁ、それも一つの理由ではあると思うけど、、、」
位にしか返せないのではないだろうか。
映画では度々、キャラクターと出来事とが非常に簡潔に結び付けられる。
この出来事があったからこのキャラはこういう価値観を持った、とか。
この怒りはあの出来事があったから。
あの一件でこの人は恋をした。
この行動はあの時の行動が伏線なんだ。
といった具合に。
ところが現実に置き換えて考えてみると、感情とか価値観、行動はあらゆる要素が互いに作用しあって生まれるし育まれるものだと思う。
トッド監督もこの点にはかなり気を遣ったようで、「JOKER」ではその部分が見事なまでに表現されていた。だから明確な答えは得られず「それも一つの理由ではある」という言い方しかできないのだろう。
"ジョーカーの狂気は彼が元々持っていたもの"
この描き方が本当に素晴らしく、何かがあって狂気が生まれたのではなく、障害(それすらジョークだったのかもしれないが)の裏に隠れた生来の狂気に素直になっていく。122分を通じて描かれたのはそこで、程度はあれど誰もが共感(或いは同情)できるし、危険だが感化されるのは自然なことに感じる。見事な脚本だ。
「ダークナイト」の一幕で
"別に俺は計算高くない。行き当たりばったりだ。そっちのが楽しいだろう?"
そんな事を言っていたジョーカーがふと浮かんだ。
気になったところといえば
・ジョーカーとブルースの変な年齢のギャップ
・ジョーカーというキャラクター像の微妙なズレ
・オマージュの多さ
2人の年齢は詳しく明かされていなかったはずだが、今作では少なく見積もっても17.8の年齢差があるように見える。これまでの作品でそこまで年が離れている印象は受けなかったので、微妙に違和感があった。
ジョーカーは"悪のカリスマ"とよく形容されるが、今作生まれたジョーカーは最終的に"悪の親玉"にはなれても"カリスマ"ではなかったように感じる。
別に悪事に対してスマートではないし、なんだったら最後の一幕も"のし上がった"というより"担ぎ上げられた"という方がしっくりくる。車上で喝采を浴びる彼が、担がれたまま調子に乗って悪事を働けばすぐに失墜し、死を見ることになるだろうなという予感が働く。
カリスマとは程遠いキャラクター像だ。
また、拳銃を多用してたのも気になった。
彼と言えばナイフや爆弾、毒薬というイメージがある。ところが今作では拳銃の力に魅入られ、フランクリンを殺すのにも拳銃を使用したし、手で銃を作って自らの頭に突きつけるシーンも繰り返された。何より、彼の初めての殺しが拳銃によるものなのもキャラクターとして微妙に思う。
映画冒頭、拳銃を持たないアーサーが悪ガキ相手に袋叩きにされる場面があるが、ここで彼は抵抗しない。
しかし、電車内でエリートに絡まれた時には拳銃を携帯していたので彼らを射殺する。
この2つのシーンの拳銃の有無は逆だった方が、よりジョーカーらしいのではないかと思う。
序盤の、精神がまだ安定してる時には拳銃を持っていようと抵抗せず
中盤、狂気に飲み込まれ始めると拳銃を持っていなくても素手で反撃し、相手を殴り殺すか刺し殺す。
という場面の比較をした方が、彼のキャラクター像を想像しやすい。
こういう今までのジョーカー像との微妙なズレが目につくシーンが多々あった。
しかし、こここそが、例の、"回答を得られなかったのに評価が高い理由"だとも言えるだろう。つまり、続きを予感させる。笑
映画が製作されるかどうかは全くの別問題として、自らの狂気に浸り悪に染まったアーサーがジョーカーに目覚めたのが今作なら、ジョーカーが真にカリスマとなる物語がこの後にあっても不思議ではない。
その道のりの中に今回あやふやになった解答が潜んでいる気がしてならないのは確かだ。
最後に、オマージュの多さについて。
今作のメガホンをとったトッド・フィリップス監督は、コメディ映画の製作に秀でた人物で、スリラー・クライムサスペンスの気分がある作品を手掛けるのは今回が初となる。
それ故、製作するにあたり、彼自身、1970〜80年代のあらゆる作品を参考にしたと語っている。
先述した、手を拳銃の形にして自らの頭に突きつけるシーンや電車内での射殺のシーン、様々な場面でのカメラワーク、フランクリンの番組セットにピエロメイクの意味の持たせ方などはスコセッシ監督の「タクシードライバー」「キングオブコメディ」を間違いなく意識してるし、音楽では喜劇王チャップリンとアーサーとをクロスオーバーさせるように「スマイル」が流れる。時代の空気感の演出も70〜80年代の映画の影響を色濃く感じた。
往年の名作をオマージュする事は決して悪いことではないし、それが粋だなと思うシーンも多々あった。
しかし、今作では量の意味であまりにやり過ぎたというか、監督の「こういう仕事は初めてだけど、俺はこんなに作品を知ってるぜ」とでも言うような、「コメディ以外にも作れるの?」という民衆の疑問に対する言い訳というか、それを言わせないための先回りというか。そういう気概を感じてしまって、終盤にオマージュが出てくるともはや少し興醒めだった。
ホアキンの素晴らしい演技と、台詞がない方がむしろキャラクターを表現しうる肉体。
観客の内なる狂気をも刺激する脚本。
これらがなければ、"どのシーンもなんか見たことある"という下らなさと退屈さを纏ってしまっただろう。
素晴らしい演技をする俳優達と素晴らしい脚本家が畑違いの監督の元に集まった。
強い言い方をすればそういう後味の悪さが残る映画でもあった。
ピエロが石段を下りながら踊るシーンはアート!
DCコミックス「バットマン」に登場する悪のカリスマ、ジョーカーが誕生するまでの姿を描いた作品。第76回2019年ベネチア国際映画祭で最優秀作、金獅子賞を受賞。公開早々、主演のホアキン デニックスが今年のアカデミー賞男優最優秀賞に選考されること確実と予想されている。
激しい暴力シーンのために15歳以上でなければ見られない。映画の内容が2012年にコロラド州オーロラで、「バットマン リターン」上映中に乱射事件が起き12人の死亡者を出したことを思い起こす、として、上映拒否する映画館が出現したり、クリスチャン団体が映画の公開に反対するなどの社会現象が起きている。
ストーリーは
1950年代と思われるニューヨーク、というか、1980年代ゴッサムシテイー。
アーサーは、コメデイアンになることにあこがれて、いまは大道芸人としてエージェントに雇われている。身体障害のある母親を介護しながら、しょぼいアパートで暮らしている。子供の時から母親に、いつも笑顔でいなさいと言い聞かされてきたとおりに笑顔でいて、人を笑わせて喜ばせたいと思ってきた。しかし感情が高まると、笑い出してそれを止めることができなくなるという人格障害を伴った精神病を病んでいて、人間関係をうまく継続できない。またそのため薬を飲まなければならないが、生活が苦しく、薬代の捻出に苦労している。家に帰れば母親のために食事を作り、入浴させ、一緒にテレビを見ることが唯一の娯楽だ。二人ともコメデイアンだったマレー フランクリンのショーを楽しみにしてる。アーサーは以前、マレーに会って励ましてもらったことがあって、それが自慢でならない。
ピエロに扮して宣伝マンの仕事をしていた時に、悪ガキに絡まれてひどい目にあったことから、アーサーは、職場の同僚から護身用の銃を借りる。しかし小児病棟でピエロ訪問のショーで、うかつにもアーサーは持っていた銃を子供たちの前で落としてしまい、それを理由に職場を解雇される。気落ちしたまま地下鉄に乗って帰宅途中、3人の男達が酔って向かい側の座席に座っている女性をからかい始めた。それを見ていたアーサーは高まる緊張を抑えられず笑いだす。笑われて怒った男達は、他に電車の乗客が居ないことを良い事に、アーサーに殴る蹴るの激しい攻撃をかけてきた。アーサーはぶん殴られて足蹴にされされて、怒りを抑えきれず遂に3人を銃で撃ち殺して逃げ帰る。翌日のニュースによると、3人の男達はウェイン財閥のエリート証券マンだった。社長でゴッサムシテイー一番の実力者トーマス ウェインは、自分の会社の将来を約束されていた社員が殺されたことで怒って、記者会見で犯人を一刻も早く捉えることに協力するよう市民に呼び掛けた。
家に帰るとアーサーの母親がトーマス ウェインに手紙を書いていた。母親はトーマス ウェインの恋人だったことがある。アーサーの父親はトーマス ウェインだと信じている。アーサーは、ウェインの会社に忍び込み、ウェインに会って、母親の名前を言うとウェインは、「その女は精神病だ。」と言って相手にしない。ウェインの屋敷にまで行って、庭で遊んでいたトーマスの息子、ブルースに塀越しに話しかけるが、執事のアルフレッドに見つかって追い返される。
警察が訪ねて来て、母親のペニーが発作を起こして病院に担ぎ込まれる。アーサーは病院で、病歴室に行って母親のファイルを盗み出す。そこには母親がアルコール中毒で精神病を患い、同じような中毒者の男と暮らしていたが、孤児を養子にした。しかし養父が養子のアーサーに暴力を奮っていたために、頭の傷から子供も精神病を発病したという経過が書かれていた。今まで母親に言われた通りに何時も笑顔でいて、人を喜ばせようと努力してきたアーサーだったが、母親と自分は血がつながっていなかった。トーマス ウェインも父親ではなくて、自分は孤児だったという事実を突きつけられて、衝撃を受ける。
アーサーは自分が立っていた足場を失った。もう歯止めが効かない。母親を殺し、心配して訪ねて来てくれた昔の同僚を惨殺し、マレー フランクリンのライブショーに出かける。テレビカメラの前で、3人の証券マンを、ジョークで殺したと告白し、マレー フランクリンを撃ち殺す。アーサーは逮捕されるが警察による護送中、アーサーのテレビ生中継にインスパイヤされた暴徒によって救出される。ピエロのお面をかぶった暴徒たちで街は略奪、殺人、強盗の無法地帯となり混乱を極めていた。街は火の海で警察は手も足も出ない。アーサーは転覆した車の上に立ち、英雄として狂喜乱舞いする。というお話。
ジョーカーが恵まれない酒と暴力の中で育てられた孤児で、精神を患い不毛な環境から逃れられずにいたために暴力で、はねかえさざるを得なかった、というジョーカーのバックグラウンドを描いている。本来だったら母親思いの心の優しい青年が、母親の望むようにいつも笑顔を絶やさず人に笑いを届けようと望んで生きて来た。孤独な時に、ベッドを共にする女性も同じアパートに住んでいる。そんなどこにでも居そうな青年が、自分が孤児だったと分かっただけで、壊れてしまうことをに理解する人も、出来ない人も居るだろう。
アーサーは子供の時の頭部外傷がもとで人格障害を持つ精神病患者になって、興奮すると笑いの発作が出てしまい自力ではそれを止められない。面白いから笑うのではなくて、笑いは彼にとっては発作であって、横隔膜のケイレンにすぎない。緊張するとてんかん発作を起こすてんかん患者と同様に発作をコントロールすることができない。だから人間関係をスムーズに続けるのは難しいし、定職について長く勤めることが困難で低所得のため薬代にも事欠く。年を取り精神障害と身体障害を持つ母親とアーサーとの生活では共倒れ必須だ。社会福祉の貧しい社会では生きていけない。
映画の最後のシーン。狂喜、乱舞い、放火。略奪、警察署襲撃、殺人といった混乱の一夜のあと、逮捕されたアーサーは警察病院で精神科の医師に向かって「いま新しいジョークを思いついた。」けれど「あなたにはわかってもらえない。」と言う。その次のシーンは、血を吸った靴の足跡を残しながら部屋を去るアーサーの後ろ姿で映画が終わる。もう彼にとって人殺しはコメデイアンとしてのジョークでしかなくなってしまったのだ。
一人殺せば殺人犯、沢山殺せば英雄、全部殺せば神様だ、と映画の中で言わせたのはチャーリーチャップリンだが、アーサーは英雄をめざして一直線に走っている。
当時のブロードウェイの様子が出てくる。劇場や映画館にが集まる人々は、賑やかで華やかだ。チャップリンの映画が上映されていて、着飾った夫婦や正装した年配者で会場は上品な笑いに満ちている。チャップリンの「モダンタイムス」の画面に彼が作曲した「スマイル」ジミー デユランが「笑っていよう。今はつらくても明るい明日が必ず来る」と歌っている。
どうしてもこの映画を観ていて、クリストファーノーランの「バットマン」と比べてしまう。
クルストファ―ノ―ランの3部作は、「バットマン ビギンズ」2005、「ダークナイト」2008、「ダークナイトライジング」2012の3本を言う。クリスチャン ベールがバットマン、ブルースウェインを演じ、執事アルフレッドをマイケル ケインが演じた。ヒース レジャーのジョーカーが素晴らしかった。製作費用の莫大さ、撮影のために世界中を舞台にし、スケールの大きさも出演俳優陣の豪華さも他のどの映画にも勝てない贅沢な映画だった。
3作目の「ダークナイト ライジング」プレミア上映中、米国コロラド州オーロラの映画館で、24歳の男が銃を乱射して映画を観ていた12人の観客が死亡、負傷者58人を数えた。殺人者はガスマスク、防弾チョッキにヘルメットをかぶり、拳銃2丁、ライフル、ショットガンで武装し、催涙ガスを2本投げガスが立ち込める中を逃げ惑う観客を殺しまくった。コロラド大学、神経科学科選考の博士課程の学院生だったジェームス イーガンホームズの単独犯でいまは終身刑に服している。映画の暴力シーンが犯行を助長したのではないかと言われ、それが今回の映画「ジョーカー」の上演に反対するクリスチャン団体や自治体の声になっている。しかし映画の上演に反対するヒマがあったら、シリアやアフガニスタンでやっている本当の戦闘のほうを止めるのが先じゃないか。
ホアキン フェニックスは、テイーンのアイドルで人気絶頂時にヘロインで亡くなったリバー フェニックスの弟だ。リバーが生きていたら二人とも40歳代の立派な役者兄弟だったことだろう。ホアキンはジョーカーを演じるために体重を20キロ落としたそうだ。彼の背中やあばらの浮きで体が痛ましい。おかしくないのに笑う発作が起きた時の苦しそうな笑い顔も恐ろしい。街の石段を下りながらピエロの化粧をして踊りまくるシーンは素晴らしい、それだけでアートシーンになっている。ちゃんとリズムに乗っていないところなど、ホアキン フェニックスの役者の才能を感じる。ヒースの身も心も引きずり込まれるようなジョーカーとちがって、ホアキンのジョーカーは淡々としていて、悲しい哀しい笑いが死を予告している。彼の胸の苦しみを、弦楽器おもにチェロを使って延々と不協和音が奏でている。
1%の富裕層が99%の庶民の富を奪い独占しているこの世界で、「新しいジョークを思いついた。あなたがたには理解できないだろうけど。」と言ったあとで、血を吸った靴で歩き回るジョーカーたちで、街が溢れかえる。そんなことが明日起きても驚かない。
「ジョーカー」は1950年代の話ではなく、1980年代の話でもなく、今のいまの話だ。
ダークナイトの前日譚と思ってはいけない
タイトルからして、ダークナイトのジョーカー誕生物語だと思って鑑賞した方々は違和感あったみたいですね。
ダークナイトやティムバートン版(原作は知りません)のキャラ設定とはイメージ違います。
バットマンことブルースウエインの父親も酷い描かれ様ですよ。もっと人格者だったんでは?
でもイイんではないかと。
スターウォーズみたいなシリーズものじゃないんだから。
映画単体としては、不幸な境遇な男がカリスマ犯罪者になるまでを丁寧に重厚に描いていて(精神病ってのは賛否ありそうですけど)、かなり疲れます。
むしろアメコミの一悪役(ヴィランっていうの?)の誕生譚って設定が無ければ、全く救いの無い話だったんじゃないかな〜って。
貧富の格差が進んだ荒んだ街に、悪のカリスマ誕生!
バットマン、犯罪者を捕まえる前に、正すべきは社会の根本なんじゃないのって感想でした。
誰の心にもあること。
心優しき青年、アーサーは苦しい暮らしをおくっている。そんな中に若者にボコボコにされたり、会社からは解雇され、馬鹿にされ、蔑まれ、様々な出来事が彼を次第に追い詰めていく。
この映画の根幹にあるのは、富裕層の貧困層に対する思いにある。バットマンシリーズを通し、ウェイン(ブルース)に感情移入していたが、今作でのウェイン(トーマス)はあまり良いとはいえない。
それに加え、家族問題もクローズアップ。信じたくない現実が重なり、アーサーは「ジョーカー」となってしまう。
しかし、これは誰にでも起こりうる話なのではないだろうか。そういった現実性がある所もこの映画の素晴らしい点である。
バットマンのオリジンでもある
ラストのジョーカーの行動が引き金になり、トーマスとマーサが殺されブルースは親をなくす、
ジョーカーのオリジンであると共にバットマンのオリジンストーリーでもあり宿敵のジョーカーと既に会っていようとは…
全てが負の積み重ねになった男って感じ
ダークグリーンの髪にワインレッドのスーツっていうセンスがいい
タクシーの中のピエロ見てる時目があってる気がしてドキってした
この映画を見て学んだことは
人に思いやりを持つことが大事だけど
思いやれたいならたとえ心が病んでいても素直になるべきだということ
主人公は被害者ぶりすぎていてダメだなーと思った
自分だけでは自分が救えなくなるほど周りが見えなくにる前に自分と似たような集団の一人になれればよかったのにね
全387件中、201~220件目を表示