劇場公開日 2019年8月23日

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「孤立した盲目の業界」火口のふたり 津次郎さんの映画レビュー(感想・評価)

0.5孤立した盲目の業界

2020年7月11日
PCから投稿

白石一文の作品としてでなく、荒井晴彦の作品として、感想を述べています。
日本映画界の重鎮がポルノ出身者であることに気づくことがあります。
素人なので網羅性はありませんが、若松孝二、瀬々敬久、石井隆、荒井晴彦。

もともとポルノを撮っていたひとが、時代が変わって、まだポルノやりたかったんだけど、じぶんの地位も向上しちゃったし、とりあえず作風を非ポルノにトランスフォームする必要が生じて、その結果、完成したのが日本映画だと思っています。

滝田洋二郎や根岸吉太郎のように、メインストリームでもいい映画をつくった人はいます。
だけど、総じてポルノ出身者の映画は、宿命に翻弄される悲劇的男と女──みたいな感じが定石です。
わたしが感じる日本映画の限界は、その感じです。

特徴は、映画を長年やっているわりに、演出が上手ではないことと、セックスに帰結することです。

日本ではない国で、メインストリームで、セックスをテーマにした映画って、ほとんどないかと思います。
ラストタンゴとかニンフォマニアックとかナインハーフとかフィフティシェイズがそうですが、けっこうまれだと思います。
まれですし、気取ってません。セックスが文芸の含みをもっていないわけです。
セックスはセックスに過ぎないわけですし、そもそも、ほかに面白いことがあるから希少なわけです。

本作の監督の名前を、主に脚本家として昔から見ます。ほんとに昔からです。
そして、いつも感じるのは「いったいセックスがなんだってのか」ということです。

わたしは性を打ち出してくる日本映画に「いったいセックスがなんだってのか」と思っています。

逆に言えば、日本映画の重鎮たちは、キャリアのスタートから、いまに至るまで、セックスに対して、すさまじい執念で「すげえ!セックスだ!」と驚嘆してきたはずです。

わたしは、セックスに「すげえ!セックスだ!」とは感じません。
あなたは「すげえ!セックスだ!」とお感じになりますか?
なぜカウンターカルチャーの申し子たちは、その日常行為に儀式的な崇拝を提示してしまうのでしょうか。がんらい楽しい行為に混沌と権威を含蓄させてしまうのでしょうか。個人的には不遜なことだと思います。

おそらく日本映画の重鎮たちは、面白いことを見いだす発想と柔軟と視野に欠けているために、せっせとおまんこさせる以外に、テーマを考えつかなかった──ということだと思っています。
ところが、かれらはキャリアに裏打ちされているため、権威と支援者と親切な観衆が、そこに詩情と文芸を見てくれるのです。

たとえば「キネマ旬報」という蓮實系権威主義のナゾの不透明団体があります。かれらは、毎年、審査規準のわからないベストテンをあげています。この映画は邦画部門の一位でした。日本映画は、田舎であるばかりでなく「厖大な内輪」でもあります。

まともな映画が10本に足りるか不安な日本映画界で年毎ベストテンとは奢っています。競技人口の少ない田舎の県大会で6人中6入賞したような感じでしょうか。フレンドリーな拾う神のアワードだと思います。

2020年です。
外国では、映画は、変革と刷新と交代を繰り返し、日進で瞠目する才能があらわれています。その潮流に抗いつづけるのが日本映画界であり、これは日本映画界の安定の無風状態を象徴する映画だと思いました。

震災は小説では動機ですが、映画では媚びです。
incestも興奮増強剤です。
世界の終わりにセックスする原始人を描きつつ、その行為に荒木経惟風の退廃を盛り込もうとしています。すでに俳優の箔付けに貢献し、内輪のアワードで瀧内公美がねぎらいの賞も得ました。俳優に罪はありません。終幕の絵だけはよかったです。

大多数の肯定に裏付けられた映画なのは知っていますし、何も知らない素人の感想ですが、ただし、この映画は肯定的な姿勢でなければ、絶対に見られるはずのない映画で、それが肯定の素因かつ日本映画の限界だと思いました。

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津次郎