劇場公開日 2019年12月13日

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「“見立て”あるいは“象徴”」ある女優の不在 Imperatorさんの映画レビュー(感想・評価)

3.0“見立て”あるいは“象徴”

2019年12月15日
PCから投稿
鑑賞方法:映画館

かなり居眠りして、「往年のスター女優」の出演シーンすら見逃しており、レビューする資格はない。
ただ、観た範囲で言うと、“奇怪”な映画であった。

予告編で期待される話だけでなく、「牛」や「包皮」のエピソードなど、本筋と全く関係ない“脱線”が延々と続くのだ。
監督の積極的だか消極的だかよく分からない、矛盾したアクションも理解不能だ。
また、たった100分の映画なのに、村にたどり着くまでに30分もかかるのも異常である。
そもそも、「トルコ語を話すイラン領土のアゼルバイジャン」という、閉鎖的で、女性差別的で、迷信を信じて堂々とよそ者に語る人がいる、スゴい地域に舞台設定している理由は何なのか。

“自己韜晦”あるいはカムフラージュではないかと思うのだ。
公式サイトには、熱心にいろいろ書いてあるのだが、それすらこの映画の真の狙いをごまかすための策のように見える。
要するに、サラン村を、今の“イランに見立てている”のではないだろうか。

「一寸先も見通せない険しい道は・・・それぞれの時代における芸術家たちの苦難を象徴」(公式サイト)しているという。
しかしそれだけでなく、「包皮」、帰路を阻む「精力絶倫の牛」、そもそも監督が閉じこもって出たがらない「車」ですら、何かに“見立て”たり“象徴”している可能性もある。
むろん、それが何かは分からない。観客に分かってしまうくらいなら、とっくに検閲に引っかかっているだろう。
「カンヌで脚本賞」とのことだが、カンヌすら騙しおおせたのかもしれない。

最近、「ブラジル映画史講義」という本や、ブラジルの20世紀半ばの「シネマ・ノーヴォ」の映画をいくつか見たが、軍事政権下の検閲をかいくぐるために、かなりメタファーを多用しているという。
うがち過ぎるのは無意味であるが、本作品は解説や宣伝をまともに受け取っても仕方ないのではないか。
完成された作品と言うよりは、苦心惨憺の作りかけの作品かもしれない、そんな感想を持った。

Imperator