劇場公開日 1986年7月

「黄土地」黄色い大地 因果さんの映画レビュー(感想・評価)

4.5黄土地

2023年1月25日
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陝西省の乾いた山岳地帯を舞台に、民謡を採集すべく八路軍から派遣されてきた青年と、山村の旧態依然とした因習に戸惑う少女の交流を描いた中国映画。監督はチェン・カイコー、撮影はチャン・イーモウ。どちらも中国映画第五世代を代表する映画作家だ。

進歩的で自由的な都会人が後進的で抑圧的な田舎者を啓蒙する、という本作の作品構造それ自体に新規性はないが、本作が80年代中葉、すなわち文化大革命後に撮られた作品であること、またチェン・カイコーが国家への信奉の果てに手痛い裏切りを経験した紅衛兵世代であることを勘案すると事情は大きく変わってくる。

映画のはじめ、八路軍の青年はあたかも貧しい山村を文化的・経済的に救済する超越者のように描かれる。村人たちは彼を「お役人」と呼んで手厚くもてなす。青年は結婚の相手が親によって決められる山村の因習に驚き、都会じゃ誰もが好きな人と結婚するのだと説いて聞かせる。少女やその弟は青年の話す都会の暮らし、ひいては中国共産党に憧憬を抱くようになる。

ある日、少女の結婚相手が決まってしまう。しかしそんな彼女の絶望に青年は少しも気が付かない。そればかりか、そろそろ村をお暇して八路軍に帰還するというのだ。

青年が村を去る日、少女は荷物もほっぽり出して彼についていこうとするが、青年は「軍にも規則があるから」とそれを突き放す。少女は自分が嫁に行ってしまう4月までにもう一度村に戻ってきてほしいと懇願し、青年はそれを受諾する。去り行く青年を捉えたショットはいつまでも名残り惜しそうに持続する。

少女は青年を待つが、やがてこらえきれなくなる。ある夜明け前、彼女は一人で小舟に乗り込む。そのまま街へ出て、共産党に入党しようというのだ。しかし岸を離れた小舟はほどなく転覆し、それを見ていた弟が「お姉ちゃん!」と叫ぶ。

それとほぼ踵を接するように、青年が再び村に現れる。彼は少女の家を訪れるが中には誰もいない。その頃村は深刻な旱魃に見舞われており、村人たちは「竜王様」に向かって雨乞いの儀式を行っていた。その中には弟の姿もあった。

村人たちがどこかに向かって一斉に駆け出す中、弟は逆方向の丘の上に青年の姿を見つけ、村人の波濤に逆らいながら必死に手を振る。しかし次にカメラが切り返したとき、丘の上から青年の姿は消えている。

中国共産党に憧憬を抱いたことによりかえって悲惨な結末を迎える少女と弟の姿は、毛沢東主義に身も心も捧げながら最後には毛沢東本人から切り捨てられた紅衛兵たちのやりきれなさと重なり合う。青年の立ち去った丘に向かってなおも手を振り続ける弟は、裏切られてもなお毛沢東語録を読み返し続けるチェン・カイコー本人だったのかもしれない。

ただ、青年は去ってしまった。毛沢東は去ってしまった。残されたのはひたすら不毛で広大な黄色い大地と、生きるよすがを失った若者の茫然自失とした姿。なんだか、どこかで見たことのある光景だ。

1957年、毛沢東率いる中国共産党が反体制的な国民を片っ端から逮捕した反右派闘争が起きた。逮捕された反体制派の人々は辺境のゴビ砂漠に追いやられ、そこで強制労働を余儀なくされた。広漠なる砂漠、生への活力を奪われた人々。その絶望的光景は本作のラストシーンとリンクしているように感じる。ちなみにワン・ビン『無言歌(2007)』がそうした光景を巧みにビジュアライズしている。

反体制派という「悪者」を辺境に追いやってまで実現したかった政治的理想にいつしか見放され、今度は自分たちが無辺の荒野に立ち尽くしている。俺たちが信じてきたものは、俺たちがやってきたことは一体何だったんだ?という紅衛兵世代の後悔と虚無が、この滑稽ともいえる反復構造の中に滲出している。

海外での大絶賛とは裏腹に、本作は中国国内においては賛否両論の嵐を巻き起こしたという。そりゃまあ当たり前なんだけど、それでも本作が中共の検閲を通過して公開に漕ぎ着けることができたことは僥倖だった。文字通り作家生命を賭けて発表した作品が、海外の目に留まることはおろか国内の段階で握り潰されてしまってはやりきれない。現在は中共の検閲をそもそも通さない、つまり中国国内での上映を諦めている「地下映画」に海外企業が出資するというビジネスモデルが確立しているからいいけど、「中国映画?香港じゃなくて?」みたいな時代じゃそうはいかなかっただろうから…

因果