劇場公開日 2017年6月3日

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「同時代に日本に生まれた男性から観て」20センチュリー・ウーマン りゃんひささんの映画レビュー(感想・評価)

3.5同時代に日本に生まれた男性から観て

2017年6月7日
PCから投稿
鑑賞方法:映画館

1979年の米国サンタバーバラ。
ジェイミー(ルーカス・ジェイド・ズマン)は14歳の少年。
彼の母親ドロシア(アネット・ベニング)は1924年生まれの戦前派。
40歳にしてジェイミーを産み、夫と別れ、その後、シングルマザーとして彼を育てた。

ベトナム戦争を経て疲弊した米国では、女性の社会進出も目覚ましく、価値観は変わってきている。
そんな流れの中で、迷ったドロシアはジェイミーの教育を、24歳の間借人アビー(グレタ・ガーウィグ)と、近所に住むジェイミーの幼友達で16歳のジュリー(エル・ファニング)のふたりに助けてもらうようお願いした。
かくして、ジェイミーは女性たちの取り囲まれていく・・・

というハナシ。
ハナシと書いたが、一貫したストーリーらしきものはあまりなく、「回想録映画」というのが相応しく、監督の体験(といっても、登場するような3人の女性たちがいたわけではないが)が基になっている。

まさに、1964年生まれの14歳の少年からみた女性たちの物語であり、彼女たちの価値観の違いや行動の違いが描かれるとともに、それに感化していく少年の姿が描かれていく。

個人的には、ジェイミーと同年代の生まれなので、当時のことを振り返りながら観たのだけれど、日米の差は大きく、1979年の自分の周囲を振り返っても、映画に描かれるような女性の社会進出→フェミニズムといった社会現象はあまりなかったように思う。
たぶん、日本では、これらの流れは5~10年ほどやって来たのではなかろうか。
女性問題が取り上げられて、大学の社会学の講義で受講し、女性たち(の問題)に目覚めさせられたのは、大学生になってからだ。

もうひとつ、当時の日本と異なるのは、劇中、カーター大統領が当時の米国状況を鑑みて慰藉する演説をしているぐらい、米国は疲弊していたのだと思うが、日本ではそうではなかった。
なので、映画で描かれるような、国家の力が減衰するというようなことは、日本ではなかった。
日本に訪れるのはバブル崩壊の後のこと。

長々と日米の情況を書いたのは、「まさしくこの時代の真っただ中に同じような年代だったにもかかわらず」「まるで同じように感じられないという違和感があった」から。
いやもうこれは、映画のせいではなのだけれど、どうにもならない。

そんなことばかり書いても仕方がないので、3人の女性たちについて感じたことを書いてみる。

24歳のアビーは、映画のなかで最も急進的なフェミニスト。
あまりに急進的すぎるのかもしれないが、その急進性には思春期の少年は惚れるだろうし、年上の女性に「わかる男性」とみてもらいたい気持ちもわかる。

2歳年上のジュリーは、意外にも旧式な女性で、彼女の中には「男性あっての女性」という考えや、人に大切なのは「強さ」だという、「強い米国」の影が見え隠れする。
いちばん若いのに、そういうあたりが興味深い。

そして、1924年(大正時代だ!)生まれのドロシア。
彼女の価値観はたぶん古い。
けれど、戦火を潜り抜けてきたたくましさがあり、それは否定できない。
さらには、戦後の男性社会で、時代より早く、シングル(およびシングルマザー)として過ごしてきた。
この、たくましさ。
しかし、彼女自身にとっての人生は「負け戦」だったのだ。

息子の教育をふたりの女性に助けてもらおうとしたのは、自分のように、「幸せでない人生」を送らないためにであり、男性から女性へとシフトする激変社会に、かつて自身が経験した社会の変化を本能的にかぎ取ったからだろう。

ジェイミーをめぐる3人の女性の描き方、これはやはり興味深いが、どうにもわかりづらいのは、女性と対立軸をなすマッチョ男性が出てこないこと。
この対立軸的男性が出てくれば、もっとわかりやすくなったのだろうが、そんなことをすると少々下卑てしまったかもしれない。

ま、監督の周囲にはそんな輩はいなかったのだろうし、いたら、こういう映画は作れないとも思う。

りゃんひさ