劇場公開日 2017年6月3日

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「閉じた物語 (原作も読んでみた)」武曲 MUKOKU mintelさんの映画レビュー(感想・評価)

4.0閉じた物語 (原作も読んでみた)

2020年11月12日
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 主人公の二人は、社会から、世界から外れている。
「武曲」の主人公は、獣の父親から生まれ、剣道以外の何も身のうちに持たない獣として育ち育てられ、父と殺し合い、そして父を殺し損ねたアル中の社会不適合者である研吾(綾野剛)と、一度は死にかけ、その結果、死に魅了され、生きながら死の向こう側を幻視しつづける高校生・融(とおる)だ。
 周りの人間はいる。女も。いるにはいるけれども、どうしようもなく孤立している。
 そもそも「武曲」の二人は、ひとの形をしているけれども、ひとではない。けものである。それがひとの世にまぎれているのだ。孤独でないはずがない。
 研吾は父親を殺し損ない、それによっておとなになり損ねている。成人するための通過儀礼のひとつとして、父殺しの疑似体験があることは知られているが、お互いの生死をかけて果し合いをし、父親を植物人間にしてしまった研吾には、父殺しのリトライ、完遂はなしえない。永遠に大人にはなれないのである。
 そこに現れたのが、同じ獣の性をもつ融である。融は研吾と、そして彼の父親と同じ属性を持っている。つまり、剣道にのめり込んでいく。
 研吾と融は、台風の夜、研吾は己の父親と同類の融を倒す(疑似的に殺す)ことによって父殺しを完遂し、融は研吾に殺されかけることによって、死への恐怖を獲得し、二人は大人の獣になる。死の擬似体験も、通過儀礼としてよく知られている。死に魅せられるだけで、具体的な恐怖を感じないのは、実は子供の特権だ。
 お互いの生死をかけた切り合いの果てに、お互いの尾を食んで永遠に繋がるウロボロスのように、「武曲」の二人は円環を以て繋がるのである。

 「武曲」の原作も読んだのだが、読んでみて驚いたのは、原作は「開いた物語」であり、融が主人公の典型的なビルドゥングスロマンであったことだ。
 映画とは設定やエピソードの順番も違うし(融には洪水で死にかけたというトラウマはない)、何よりも映画は台風の夜の対決がクライマックスであるのに対し、原作ではその後の融の剣道一級審査での試合がクライマックスであることだ。その試合の中で、融は剣道を通じて「世界」と繋がる。
 成長するということは、私は、世界と繋がることだと思っている。広く浅くでも、狭く深くでもいい。人間は、世界と繋がらなくては生きていけないのだ。
 剣道に限らず、何かを極めようとすることは、ひどく内向きなものごとであっても、「世界」と繋がることである。針の一点を通して、宇宙を見ることができると言おうか。そういう、チャンネルが開いた瞬間のようなものが、原作の小説「武曲」のクライマックスでは描かれている。
 ところが映画「武曲」は完全に閉じた物語として創られており、原作とは正反対なのである。
 構成や作品としてのまとまり、全体的なバランス、綾野剛の演技力(酒乱の演技のリアリティがすごい。背中とか腹筋とかもストイックで美しい)、村上虹郎のみずみずしさ(私服も学生服もかわいい)、他のキャスティングの良さ(小林薫が父親役で、ラストにあの笑顔なんて完全に狙っているけどやられる)など、総合的に考えると、原作より映画のほうが作品としての完成度は高いが、そういう問題ではなく、完全に別の作品なのだろうなと思う。
 熊切和嘉の監督作品は、他に「私の男」を見ている。こちらも見事なほど「閉じた物語」だった。
 これが熊切監督の特性や嗜好なのかはわからないが、これから彼が人間と世界をどう表現していくかについては、注目していこうと思っている。

mintel