劇場公開日 2016年6月4日

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「悲しみを撮る」FAKE xtc4241さんの映画レビュー(感想・評価)

5.0悲しみを撮る

2016年6月13日
PCから投稿
鑑賞方法:映画館

笑える

悲しい

知的

「佐村河内さんの怒りではなく、悲しみを撮りたい」と森達也監督は言った。
怒りとは即物的で、瞬時に現れる行為だろう。でも、悲しみとはもっと深い感情ともいえるだろう。
それも、渦中の出来事から少し時間が経っているから、なおさら冷静なものが必要だ。あまり、周りに右往左往されるのではなく、猫の目のように、客観的な視点が必要だと思い、自ら望んで監督を引き受けた。

はじめのうち、佐村河内氏は怒りを隠せなかった。
ゴーストライターとして告発した新垣氏にも、それを単純化して伝えたマスメデイアにも、また、それを商業化して一大見せ物としたコマーシャリズムにも。
事実よりも、面白おかしくして、見せることに佐村河内氏は不信感がいっぱいである。
そもそもゴーストライター事件として扱われることに嫌悪している。この問題は共演者事件であると言っている。

作品をつくるということはどういうことか?
僕も弟と何曲も曲を作っているが、いろんなパターンがある。
たとえば、初めに僕が詩を書き、リードとなるフレーズをつくる。そのとき、あるイメージ(それはビートルズの曲だったりするのだが)をもっている。それを弟はなるほどね、とか言ってミドルパートを作り、全体を膨らませる。僕はここはもっとこんな感じがいいな、でも、全体にはOKだといって曲ができる。レノン&マッカトニーの作品もいろんなパターンがあったろうが、こんな感じでできていったのではないかと思う。だから、佐村河内氏がイメージを伝え、新垣氏がそのイメージを膨らませていくということはひとりの作品ではなく、ふたりの共作以外のなにものでもないだろう。

耳も聞こえる音もあり、聴こえない音もあるというのは確かだろう。僕自身、長年ウォークマン生活で耳には自信がない。人には聞こえてるのに、僕には判然としない会話もあるからだ。最近、特に感じることが多くなった。佐村河内氏の場合、妻の手話がなければ困る場面がたくさんあることが、この映画でもわかる。

この映画で事実を歪曲して伝えた張本人のように描かれている新垣氏も、実はこの面白おかしくすれば視聴率があがるという組織の罠にはまっている人に思える。一個人としては気の小さな善人であるのだが、大きな体制のなかでは抗えないのだ。
個人としては悪い人はいない。しかし、それが全体として集約させる時、おかしな動き、変な結論になってしまう。それが増幅されて全く違うものとなる。いろんなディテールを切り取ってしまうとき変質が起こる。だから、表層だけでなく、「じっくり、ちゃんと考えてみようよ」と言われている気がするのだ、僕自身にも。

xtc4241