劇場公開日 2016年5月14日

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「無私という日本庶民史の「結晶」」殿、利息でござる! ユキト@アマミヤさんの映画レビュー(感想・評価)

3.5無私という日本庶民史の「結晶」

2016年6月10日
PCから投稿
鑑賞方法:映画館

泣ける

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知的

「殿、利息でござる!」とは、なんともキャッチーなタイトルである。それにつられて鑑賞すると、意外なほど内容はシリアスであり、さらには、これが江戸時代の庶民たちの実話である、ということに二重の驚きがある。
このお話の舞台は仙台藩の貧しい宿場町「吉岡宿」
領地を収める仙台藩(藩主は七代目、伊達重村)からは、藩の運送費などを吉岡宿が負担することとされていた。もちろん、当時は身分社会。藩主や藩士の権力は絶対的だ。
もし、運送業務に支障があれば、その責任を取って、吉岡宿住民の首がすっ飛んでしまう、そういう時代のお話である。
吉岡宿では、代々続くこれらの重税に我慢できず、夜逃げする者が相次いだ。夜逃げが増えて、宿場町の人口が少なくなれば、なおさら一人当たりの税は重くなる。そのため余計に夜逃げが増える。
まさに、負のスパイラルに「吉岡宿」は陥っていた。
「このままでは吉岡宿は潰れてしまう……」
宿場町の将来を案ずる商家、穀田屋十三郎(阿部サダヲ)は、茶作りを営む菅原屋篤平治(瑛太)に相談してみる。
町の知恵者として知られる、菅原屋篤平治。
彼は、かねてから抱いていた密かな計画をこっそり打ち明けた。
「いいですか、伊達の殿様に吉岡宿から金を貸すのです。そして利息をいただく。その利息で税を賄うのです」
貸し付ける額は、ざっと見積もって金1,000両也。
今の貨幣価値で約3億円だという。
この驚天動地の「殿様利息プロジェクト」は、こうしてスタートを切るのである。
この作品の監督は「アヒルと鴨のコインロッカー」や「ちょんまげぷりん」
「予告犯」などの作品で知られる中村義洋氏である。
中村監督作品では「ちょんまげぷりん」が大変面白かった。
江戸のお侍が現代にタイムスリップし、シングルマザーの家に居候となり、特技を生かしてパティシエになる、というファミリーストーリーである。
主役の錦戸亮くんが、ちゃんと「ナンバ歩き」をしていたり、当時の武士の佇まいを忠実に再現して見せているところに好感が持てた。
その中村監督が本作を手がける。
僕は本作を観る前、既に磯田道史氏の原作「無私の日本人」を読んでいた。
穀田屋十三郎、菅原屋篤平治、吉岡宿の篤志家たち。
江戸時代の身分制度の下では、庶民の実像は「ノミ」「虫けら」程度に思われていたことがうかがえる。
特筆すべきは、本作の慈善事業が、地元の吉岡宿を助けたい、という庶民自らが立案し実行したこと。しかもその功績を、末代に至るまで絶対に口外してはならない、という「掟」さえ定めていたのである。
このため、彼らの事業は本来なら、歴史の地層深くに埋もれてしまう運命のはずであった。
だが、彼らの偉業を後の世のため、本に書き残して欲しいと、ある人物が磯田道史氏に、まさに「嘆願書」として依頼したのだ。
江戸末期の武士のリアルな日常を丹念な調査で描き切った「武士の家計簿」。
この本を書いた先生なら、きっと吉岡宿の恩人たちを、粗末に扱うはずがない。依頼者はそういう切実な思いで、磯田氏を選んだのである。
その狙いは正しかった。
磯田氏は資料を調べながら、おもわず「涙を押さえきれなかった」と語る。
そして彼は本書を「無私の日本人」と名付けた。
「無私」とはなにか。
私を勘定に入れない、そしてなにより他の人を優先に「世のため、人のため」という意識を強く持つということだろう。
これを一言で言えば「公」(おおやけ)である。
余談ながら、江戸期に入って「公」の意識が庶民の間に広く浸透していたことが、のちに明治維新後、驚くべきスピードで近代国家を作り上げていく原動力の一つになった、と司馬遼太郎氏も語っている。
それはまさに「透きとおるような、澄み切った、みずみずしい公の意識」をすでに江戸期の庶民たちが持っていた、という日本史の奇跡である。
これらからわかる通り、本作は実は極めて重厚な内容の作品なのである。
それを「殿、利息でござる!」という軽妙なキャッチフレーズで、エンターテイメント作品の体裁として整えた。
内容はあくまでも重く、暗い。しかし、表面の体裁はポップに。
これを映画としてどのように実現するのか?
作品中、どうしてもシリアスに、シリアスになってしまうお話の流れ。
それを上手く転換し、あくまでもサラリと楽しめる作品に仕上げた、中村監督の手腕がうかがえる一作である。

ユキト@アマミヤ