劇場公開日 2016年6月25日

「地獄にだけは…行きたく……なるかも?」TOO YOUNG TO DIE! 若くして死ぬ ユキト@アマミヤさんの映画レビュー(感想・評価)

3.0地獄にだけは…行きたく……なるかも?

2016年7月13日
PCから投稿
鑑賞方法:映画館

笑える

楽しい

単純

地獄というやつは、どうしてこう、想像力を掻き立てられるのだろう?
それに比べて、天国というやつは、どうして平和すぎて、人間には退屈なのだろう?
古くから多くの画家や宗教家、作家などが、地獄の恐ろしさ、むごたらしさを「さも、見てきたかのように」描いて見せた。
日本では、あの紫式部が、宮中でお披露目された「地獄絵」が怖くて見られず、後で「からかわれた」などというエピソードがあるらしい。
西洋だと、僕が心惹かれるのはヒエロニムス・ボス。
「快楽の園」という、3枚続きの祭壇画がある。左側には神様の領域を描く。これがなんとも退屈である。
しかし、誰もが惹きつけられてしまうのが右端の一枚。地獄絵である。
暗闇の中に、妖しく映る地獄の炎。
その明かりに照らし出される、異形の怪物たち。
その造形の見事さ、想像力のたくましさに圧倒されてしまう。
ヒエロニムス・ボスの、絵描きとしての力量、飛び抜けた才能の確かさが、うかがい知れる作品である。
もちろん、日本の絵師たちも負けてはいない。
国宝「地獄草紙」などは、鬼たちが今にも絵巻物から飛び出してきそうだ。
その描写力は、紫式部を間違いなくビビらせるだろう。
では、テクノロジーの発達した現代ではどうか?
総合芸術とされる、映画や演劇。
描かれる対象物は、常に動きを伴い、音楽も提供される。
映画に至っては「編集」というマジックによって「室内」から「宇宙空間」へも、瞬間移動可能なのだ。
現代に生きる「表現者」ならば、こういった、有り余るほどのテクノロジーを利用できる。
ならば、地獄描写など簡単に料理できるはず……と思ったら、とんでもなく痛い目に会うことは明らかだ。
本作は宮藤官九郎さんの脚本・監督作品。
彼らしく、かなりぶっ飛んだ設定。それにやたらと挑発的で、パンクっぽい表現になっている。
主人公の高校生は、旅行の最中、実にくだらない原因で乗っていたバスが転落。命を落としてしまう。目が覚めた時、彼は地獄にいた。
「なんでオレなんだよぉ~、好きな子いたんだよぉ~! まだ、キスもしてないんだぜ!」と彼は地獄の住人である、鬼相手に不満をぶちまける。
地獄では毎週、閻魔大王の裁きが行われる。
誰を畜生道や、餓鬼道、あるいは人道へ行かせるか、決めるのである。
主人公たちは、ここで何度も裁きを受けて、ある時は鳥のインコになり、ある時はカマキリにさせられたりと、輪廻転生を繰り返す、という物語。
支離滅裂を装ってはいるが、そこは「クドカン・ワールド」である。ちゃんと、映画作品として、押さえる部分はおさえて作ってあるので、辻褄は合う。
ラストシーンに至っては「これは予定調和なんじゃないの?」「クドカンらしくないのでは?」と首を傾げたくなるほどだ。
本作で描かれる地獄。
ツラ~い「責め苦」がありそうなものだが、そんなのそっちのけで、主人公や鬼たちは仲良く「部活」みたいなノリの良さで、ロックバンドをやっている。
ライブハウスさながら「バンド合戦」があり、これに勝つと人間界へ戻れるという設定。
それはなんとも楽しそうなのだ。
不謹慎なんだけど、天国みたいな、つまんないところにだけは行きたくない、と思わせてしまう。
小綺麗な高級レストランよりも、あえて薄汚れた居酒屋を好むようなものである。猥雑で、いろんな人が「生老病死」の定めのもと「四苦八苦」を抱えながら、いろんな生き方を紡ぎ出している。
その悶え苦しみながらも、生きなければならない「人間の可笑しさ」にまでたどり着けるのなら、表現行為や、芸術も捨てたもんじゃない。
その格好の例が落語の「地獄八景亡者の戯れ」である。
恐ろしいはずの地獄を、ここまで笑い飛ばしてしまった、先人たちの生きるたくましさに、僕は思わず首を垂れたくなるのである。

ユキト@アマミヤ