劇場公開日 2013年2月15日

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「非映画的な映画」ゼロ・ダーク・サーティ チンプソンさんの映画レビュー(感想・評価)

4.0非映画的な映画

2013年12月14日
フィーチャーフォンから投稿
鑑賞方法:DVD/BD、映画館

悲しい

怖い

難しい

東日本大震災から二ヶ月後に決行され、日本でも報じられたビンラディン殺害。
今の10代は9.11がどういったものだったのかわからないのが普通で、この映画を観て“理解しろ”というのは無理難題に近い。
だから知らない人は観る前に少し知識として入れておくといい。

映画としての出来は率直に言えば悪い。
なぜなら、全編通して映画的な時間配分を無視して作られてるからだ。
冒頭の拷問シーンしかりアブアフメド追跡過程も、カットして短くすることは出来たはずだ。なぜそれをやらなかったのか。
それは監督自らが記録として残し伝えたいからと語っている。
事実かどうか明確ではないものを伝えるというのも甚だおかしな話ではあるが、彼等の緻密なリサーチによって作られたこの映画には、本来必要なものが全く描かれておらず、ただひたすらに起こった出来事を描いている。

この映画には感情が無い。

主人公のマヤは紆余曲折ありつつも、アメリカの敵とされるビンラディン追跡にひた進む、悪く言えばマシーンだ。
そんなマヤに観ている人は感情移入出来るはずがない。この映画は本当に歴史を辿っているだけだ。

戦争は、いち意見で語ることは不可能であり、今後の歴史においても、社会に生きている以上解決出来る問題ではない。
必ず意見のバックグラウンドが邪魔をする。現実問題としてこれは仕方がないことだ。
それらの意見を全て飲み込む作品を作るとして、1番なのは結果だけを描くことだ。
起きた事以外を描かない。
この映画に関しては、この無感情なストーリーが「記録」として相応しいものになっているということ。
実際に抗議などが出た問題作ではあるが、描くことを禁止するというのは「記録」として残す意図とは真逆の存在になってしまう。
そういった意味で、この映画の非映画的な部分が存在している。
しかし映画としてラストシーンは必要である。
言わずもがな、最後はビンラディンが殺害される。ここで終わったら観ている人は何を思うか。
納得や理不尽感といった気持ちで終わってしまうだろう。果たしてそれでいいのだろうか。
「記録」として残す以上、今現在、現状も伝えるべきではないのか。

劇中のマヤは、言うなれば当時のアメリカ国民の代弁者だ。
同朋を殺された国民は怒り、ビンラディン殺害が行われた日には喜び笑い、そのことに疑念を抱いた者は叩かれた。
だが、事が終わり、何が始まったのか。
テロは消えたのか。
戦争はなくなったのか。
10年という長い年月を経て成し遂げ、得たのはなんだったのか。
この映画のラストシーンは、そのことについて問い掛けた秀逸なものだった。

ただひたすらにビンラディンを追い求めたマヤと国民。
成し遂げた先のマヤ(国民)は、一体どこへ向かうのか。
映画を観て、考える。それが出来る映画。

チンプソン