劇場公開日 2021年3月12日

「ゲイと悪魔と前衛と。シュルレアリスムを受け継ぎ、サイケへと橋渡しした重要作家の実験映画集成。」マジック・ランタン・サイクル じゃいさんの映画レビュー(感想・評価)

3.0ゲイと悪魔と前衛と。シュルレアリスムを受け継ぎ、サイケへと橋渡しした重要作家の実験映画集成。

2021年3月15日
PCから投稿
鑑賞方法:映画館

名のみ知っていて未視聴だったマジック・ランタン・サイクルを、アップリンクにて。

多少神格化されすぎているきらいは否めないものの、今見てもそれなりに面白い。
この人がいないと、のちのデレク・ジャーマンやシュヴァンクマイエルもあんな芸風にはならなかったかもしれないし、音楽シーンにおけるMVカルチャーの発展もなかったかもしれないと思えば、やはり重要な映像作家だといえる。
少なくとも、意識下の妄想や、夢の内容をそのまま映像化する手法においては、ダリやブニュエルらシュルレアリストの前衛映画を引き継ぎ、その後のサイケデリックやドラッグ・ムーヴィーに橋渡しした役割は大きい。
また、音楽においてはジョン・ケージやモートン・フェルドマン、絵画においてはジャクスン・ポロックやデ・クーニング、ジャスパー・ジョーンズ、ラウシェンバーグらが担った、NYの50年代から60年代にかけての「前衛」の、「映画」パートを象徴する存在でもあった(ちなみにこの時期のアートの中心人物の多くは同性愛者だった)。

同性愛、アレイスター・クロウリーへの傾倒、ミック・ジャガーやジミー・ペイジ、マンソン・ファミリーのメンバーとの交流、『ハリウッド・バビロン』の著者・・・などなど、アンガーを特徴づける面白要素は数多ある。
ただ、これだけは言える。
この人ほど、「映像技術とモンタージュの効果」、すなわち「映画というメディアのもつ力」に、絶大な信頼感をもって作品制作にあたっている監督はそうはいない。
なんというか、映像上のトリックやモンタージュ、手管を使うことに、ホントに衒いがないんだよね。玩具を得た子供のように、嬉々としてやってる。
要するに、この人は、映画の「手法」の力を100%信じていたということだ。
スコセッシ他、多くの映画人に敬愛されるゆえんである。

以下、上映順に。
●ルシファー・ライジング(1996→1980完成)
諸々の理由で製作が何度も頓挫したということもあってか、完成品としてはかなりグダグダなつくり。まるで素人がつくったカラオケ映像のようなクロウリー教本で、これならまだ幸福の科学の勧誘ビデオのほうが面白い。少なくとも、映画人としてのアンガーの名誉になるような作品ではないと思う。夜景にはフランドルやイタリア15世紀絵画の「地獄」の影響が垣間見られる。

●快楽殿の創造(1953)
悪魔崇拝とサイケデリック wth ヤナーチェクの「グラゴル・ミサ」。もっともアンガーのイメージに近い作品かもしれないが、個人的にはやはり前半が冗長に過ぎる。後半のサイケパートは、面白いけど一本調子で飽きる&技術的に荒っぽい&仕上がりが粗いという印象。ドラッグの引き起こすトリップをそのまま映像化したようなノリは、形而下の自動筆記に近い感覚があり、アンガー作品の中でももっともシュルレアリスティックである。

●我が悪魔の兄弟の呪文(1969)
上の二つと同路線だが、一番まとまりがよいし、出来もよいように思う。ミック・ジャガー作曲のノイズ音楽にのせて、やけにまつ毛の白い少年の嫌ったらしい表情とモンタージュで組み込まれる、ゲイの性妄想、悪魔崇拝の断片、アンソール的な仮面のイメージ。これらが三すくみのように影響しあって、やがてはサイケデリックな映像の奔流へと高揚してゆく。今でいうプロジェクションマッピングを用いたドリアン・グレイの肖像のようなカットが印象的。

●人造の水(1953)
9本中、もっとも美しくバランスのとれた珠玉の一篇。ヴェネチアの謝肉祭を抜け出してきたかのような古風なドレスをまとった仮面の女を案内役に、チボリ公園の噴水をさまざまな角度から映しこんでゆく。「流水の美」(自然)と、「人造物である噴水のバロキッシュな美」(人工)、その噴水が水流と風化で遺跡のようになった古雅の美」(自然+人工+時間)という、三つの美がめくるめくカメラワークで収められる。
モチーフ上、自然と人工の調和がはかられると同時に、画面内では光と影の調和、映画としては映像と音楽の調和がつねに追求される。水を用いた「ファンタジア」のような感じだ。
シンプルなぶん、観るもののノスタルジィと想像力をいや増しにかきたてる逸品といえる。

●スコピオ・ライジング(1963)
バイクの整備と幼少時のチョロQ遊びの平行モンタージュ。→裸レザーのヘルズ・エンジェルズ・ファッションショー。→部屋でくつろぐ青年がフル装備でバイクに乗りに行くシーケンス(テレビ画面にはマーロン・ブランド、壁にはジェームズ・ディーン、手元には新聞漫画、装飾はスカル。最後歩いていくシーンでキリストのイメージ挿入)→バイクのモトクロスレース→公道・路上での走行映像(ナチスのイメージ)。
オールディーズが全編流れ続ける密度の濃いBGMは、主人公が鏡に銃を構えてみせるシーンと合わせて、その後スコセッシに受容されたものといえる(『タクシードライバー』!)。
ゲイ・カルチャーとヘルズ・エンジェルズたちのバイク・カルチャーの明確な親和性、アスペ少年のようなバイク趣味への偏愛の表出、どちらかといえば陽性で衒いのないまっすぐな空気感など、アンガーの個人的な趣味とフェチシズムにおおらかに従った愛すべき作品で、一ミクロンもバイクに興味のない僕でもずいぶんと楽しそうに見えてほっこりした。そっか、出陣する彼のなかでは自分はキリスト並みなんだなw(そういや、俺だって子供のころ、出かけるときはいつも必殺シリーズの出陣テーマ曲が脳内で鳴り響いてたもんだ)。

●K.K.K. Kusutom Kar Kommandos(1965)
「スコピオ・ライジング」のバイクをカスタム・カーに置き換えただけの同工異曲の小品で、メカの美に対するフェティッシュな傾倒や性的なほのめかし(パフですりすり)はあるものの、総じて地味な仕上がり。もしかすると当時のCMとイメージが共有されているのかも、と思って観ていたが、まさにフォード財団からの依頼作らしい。で別件で委嘱料を使いきったので、4分しか作れなかった、と。

●プース・モーメント(1949)
次々と緞帳のようにあがる服、服、服。それ着た女性が、屋上で寝そべり、外出する。なんのことはない情景を凝ったカメラワークで撮った作品だが、これは20年代のハリウッド女優のオフを描いている作品らしい。登場するドレスは、すべて無声映画時代のハリウッドの衣装デザイナーだった祖母の私物とのこと。残念ながら僕は、画面内情報だけからは、これがそういう懐古趣味的映画だと気づくことはできなかった。

●ラビッツ・ムーン(1950)
月に棲むという兎をテーマに、月に焦がれる道化と、彼が思いを寄せる可憐な娘、それを揶揄するもう一人の道化(悪魔)の織り成す、コメディア・デラルテ風のパントマイム(ピエロとコロンビーヌ、ハーレクイン)。日本の昔話が元ネタとアップリンクの紹介にあるが、発想源はどう考えてもシェーンベルクのメロドラマ(音楽付き詩朗読)「月に憑かれたピエロ」だろう。
サイレント・ムーヴィーへの憧憬に満ちた擬古的でノスタルジックな作例だが、しょうじき観ていて退屈。マイムもダンスもやけに素人臭くて、キッチュが先に立ってしまうのが難か。おっと思わされたのは、本物の兎の上に死体のような道化人形が降ってくる刹那的エンディングくらいかも。ちなみに、何バージョンかあるようだ。

●花火(1947)
大トリに最高に面白いものを観せてもらって、感謝。
これ、淫夢厨大喜びやろ(笑)。
17歳のアンガーが監督したという彼の実質的デビュー作。
全編これゲイの性妄想という直情的な実験映画で、これのせいでケネス・アンガーはわいせつ容疑で逮捕されたらしい。たしかにむき出しというか、節操がないというか、すがすがしいまでに淫夢そのものなので、官憲も過敏に反応したんだろうなあ……。
途中、水夫にリンチ・レイプされる妄想シーンがあるが、「水夫」は古くからあるゲイ・アイコンである。船に閉じ込められているむくつけき男たちの間で、いやおうなしに愛が生まれるM/Mはそれこそ星の数こそあって、メルヴィル原作のベンジャミン・ブリテンの歌劇「ビリー・バッド」などもその一例だろう。単に男が男に欲情するだけでなく、サドマゾキズムがセットになっている点でも「花火」と「ビリー・バッド」は共通し(後者では天使のような水夫ビリーに焦がれる想いを自認できない船長が、ついにビリーを拷問しなぶり殺す)大変興味ぶかい。
性象徴としては、こっぱずかしくなるくらい直接的な描写になっていて、白濁液顔射とか酒瓶からの煙噴出とか、隠喩を超えて明喩、いや軽くギャグの領域に踏み込んでいる。股間に花火をつけながら、レスピーギの「アッピア街道の松」が大音響で鳴り響く終盤のクライマックスには腹を抱えて爆笑した。
まあこれだけ直接的になるくらい、抑圧下の性衝動というのはマグマのように熱く滾るものだということで、その生々しさと衒いのなさゆえに、当事者性(およびこれが撮られた時代背景)においては、どこまでも切実で、悲痛ですらあるのだけれど。

じゃい