劇場公開日 2012年1月7日

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「世界的規模のパニックとラブストーリーを結びつけた構成力が素晴らしい作品」パーフェクト・センス 流山の小地蔵さんの映画レビュー(感想・評価)

4.0世界的規模のパニックとラブストーリーを結びつけた構成力が素晴らしい作品

2011年12月23日
PCから投稿
鑑賞方法:映画館

 世界的な疾病の蔓延が世紀末的な様相を見せる中で、偶然出会う主人公とヒロイン。疾病パニックの緊張感と私的なラブストーリーが反響しあい、愛し愛されることの意味を問い直す、意味深なドラマでした。壮大な世界の終わりに導く、絶望的な状況設定と、そんな状況のなかでかえってこころから人を愛することを見つける主人公カップルとのコントラストの際立てさせた構成力は、素晴らしいと思います。
 きっと本作をご覧になれば、どんな困難に遭おうとも前に進もうとする人間の愛の強さ、力強さを感じられることでしょう。上映時間は92分と短めでテンポ良く進んでいきます。余計な説明は極力省き、主人公の心の動きにフォーカスしたことには好感が持てます。
 五感が徐々に奪われていくという恐ろしいパニックストーリーなのに、パニックの描写はなく、作品のルックは至って叙情的。哀愁のこもった音楽に乗せて、カメラは普段の平和な人々の営みを俯瞰して始まります。まるで造物主の如く。

 何気ない一日の朝、目醒めた主人公のマイケルは、昨晩ナンパした女性を、添い寝されては眠れないんだという身勝手な理由で部屋から押し出します。彼はナンパしても、一晩で捨ててしまう、人を愛することが出来ない男だったのです。彼の職業は、ロンドンの人気レストランのチーフシェフ。五感をなくす本作には相応しいキャラでした。

 そんなマイケルが偶然知り合うのが、感染予防学者のスーザン。彼女の元には、既に嗅覚を亡くした患者が隔離されていました。しかし何も原因が分からず彼女は困惑するばかり。結局最後まで、病気の原因は分からずじまいでした。マイケルは、スーザンに手料理を振る舞うことで、次第に親密になっていくのでした。

 本作で小うるさく感じるのが、ナレーション。余計なお世話だと言いたくなるような親切な解説ぶりは、まるで造物主の如く、地上の人間に病の進展を「通告」します。
 最初の通告は、「悲しみ」が訪れるという予告でした。
 本作の構成は、必ず喜怒哀楽という人間本来の感情の高ぶりが起こった後、五感の一つが失われていくという展開なのです。

 異常な悲しみ、喪失感を味わったマイケルとスーザンは、突如狂ったように発情し、貪るようなベットシーンへもつれ込みました。本作では、二人が絡むベットシーンが多いのも特徴です。五感を失っていく恐怖感が、ふたりの人間的な防衛本能に火をつけているのかもしれません。演出で巧みなところは、どんなにふたりが激しく絡んでいても、本当の愛が感じられないというところです。それは来るべき恐怖から忘れたいだけの安心であり、体を絡ませているときだけ絆を実感できるという刹那にしか見えませんでした。
 こうして、ふたりも、そして世界も嗅覚を失ったのです。
 マイケルのレストランは、客が来なくなり、ピンチになります。しかし、面白いことに残された五感を刺激するメニューを開拓したことで、客足は戻り、世界全体も日常を取り戻していきます。そんなところに、どんな環境になっても人は覚悟を決めれば生きていけるのだという監督のメッセージを感じました。

 次の通告は、異常な食欲が訪れるという予告。
 人々は狂ったように手近なものを食べ漁ります。なかには口紅や花束まで喰い漁るシーンには唖然としました。マイケルの店のスタッフたちの食いっぷりも迫力満天で、見どころです。
 このシーンでは、人間の根深い煩悩の深さを見せつけられたような気がしました。食欲が無限になるのだったら、性欲もと思ったのですが、さすがにそっちは主人公の二人以外は起こらななかったですね(^^ゞ
 こうして世界は味覚を失いました。でもマイケルの店は残された視覚や味わいを頼りに営業を続けるところが逞しいです。このシークエンスでよくやるなぁと思ったのが、マイケルとスーザンが風呂場でいちゃついて、シャボンのあわや石けんを味覚がないことをいいことに、ぱくぱく食らいつくシーンです。あれ本物の石けんなら凄い役者根性ですね。
 世界はまたまた平静を取り戻したかというとき、また次の通告が予告されます。
 それは、底なしの怒りでした。
 突然激しく怒りだした後、聴覚を失うという現象が世の中を覆い始めます。ここに来て、政府も対策に乗り出し、聴覚を失った患者を隔離するようになっていました。
 スーザンは、比較的安全地帯にあったマイケルの部屋に避難して同棲を始めます。そこでやっと自分の身の上を明らかにするのでした。スーザンは、子宮の病気で子供ができない体になっていたのでした。そのため恋することすら拒絶して、研究に没頭していたのです。そんな打ち明け話をすんなり聞くマイケルに、スーザンは意外に思うのでした。
 結局女性を愛することができない快楽男と女であることを諦めていた女が、世界規模の疾病を縁として、かろうじて結びついていたのです。
 しかし、その脆いつながりはマイケルの発病でこときれます。急に怒りだしたマイケルに恐れを為したスーザンは逃げ出してしまいます。
 その聴覚を失ったマイケルがスーザンに電話をずっとかけるシーンが空しかったです。
 聴覚を失った世界は、いよいよ次の視覚が失われるのも時間の問題ということを自覚し始めます。人々の対応は両極端に別れました。あるものは略奪に動き、あるものは信仰に救いを求めました。
 本作に極めて宗教的なテーマを感じるのは、五感を奪われるなかで、人は何を得られるかということです。五感が満足なうちは、人は足ることを忘れて、他人との違いに一喜一憂して、グチを言い続けがちです。けれども本作のように五感を奪われる経験をすると五体満足なことが、いかに奇跡であり、有り難いことであるのかと意識が宗教的に変わっていくのでしょう。

 最後の通告は、突然前触れもなく予言されました。
 人々は、突如至福に包まれて、他人を愛さざるを得なくなります。マイケルも真っ先にスーザンのオフィスに向かいます。スーザンも同じく彼の部屋に向かいます。
 出会ったころは、いくら体を合わせても、自分で作り上げたこころの境界線を越えることはないふたりでした。しかし、最後の感覚の喪失を直感したとき、お互いの境界線が吹っ飛び、思い切って愛情に飛び込もうとするのです。
 恋をすると盲目になると言われます。本作の五感を失うストーリーは、まるでそんな恋愛感情を比喩しているかのような話でした。逆にいえば、人を恋しいという感情を、いかに五感が邪魔しているかがわかる話なんですね。
 例え全ての感覚を失っても、愛する人の息づかいさえ分かれば、それを生きる勇気につないでいけるというところに、大きな希望を感じた次第です。
 本作は、ハリウッド的な壮大な背景を作ることなく、あくまで恋愛を強調し外側でなくこころの内面の向かっていく作品なのです。

 イギリスのトップスターに登り詰めたマグレガーは、本作でも快演。女を遊び相手としてか思えなかったマイケルが、本気で人を愛するまで変化をよく演じていたと思います。そして何よりもエヴァ・グリーンが、スーザンの真実の愛に目醒めていく変化を繊細な演技で表現していることが特筆に値するでしょう。

流山の小地蔵