劇場公開日 2021年10月23日

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「土方、移民、ヒップホップ」サウダーヂ 因果さんの映画レビュー(感想・評価)

4.5土方、移民、ヒップホップ

2023年12月7日
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<ヒップホップの越境性とナショナリズム>

ヒップホップと移民問題。この一見して無関係にも思える二項がなぜ違和感なく混じり合っているのか。そこにはヒップホップという音楽ジャンルが根本的に孕むアンビバレンスが深く関係しているように思う。数ある音楽ジャンルの中でも、ヒップホップほど引用(=サンプリング)のカルチャーが盛んなものはないだろう。無論リリックにおける時空超越的な符号も散見されるのだが、やはりビートにおけるサンプリングはよりダイレクトだ。

例を挙げればキリがないのでここは恣意的にいこう。私の好きなLIBROの代表的ナンバー「雨降りの月曜」。これはブラジルのピアニスト、テノーリオ・ジュニオールがリーダーを務めたアルバム「Embalo」所収の「Nebulosa」の冒頭部をほとんどそのままサンプリングしている。テノーリオ・ジュニオールは60年代にアルゼンチン軍事独裁政権の手下に過激活動派と勘違いされ、拷問の果てに殺害されており、したがって本アルバムは呪われたアルバムとしても広く知られている。アルバムを覆う暗澹たる歴史をそのまま引き受け、そこへ鬱屈としたリリックを乗せたLIBROの真摯な文脈性が光る名ナンバーだ。

ここで注目すべきは、サンプリング元となる「ネタ」がヒップホップとの結節点を必ずしも持っておらず、また国や言語の壁をいとも簡単に超越しているという点だ。ヒップホップは遍く全世界の音楽を貪欲に吸収し、自らの血肉にしてしまう。

実際、劇中でもヒップホップグループ「ARMY VILLEGE」のクルーが沖縄民謡と思しき音楽をサンプリングしているシーンがあった。こうした無差別的な越境性がヒップホップという音楽ジャンルを大きく特徴づけていることは疑いようがない。

しかし同時に、ヒップホップは自閉的なベクトルをも有している。ここにはヒップホップの地域性の強さが関係している。以下のデータではヒップホップにおける「レペゼン(=represent)文化」からラッパー(ここではBADHOP)と地域の関係性が考察されている。

”BADHOPはHIPHOPに出会い、自分たちの存在を、自分たち自身で定義した。それは、その場所ならではの表現で、自分の「生き様」をラップすることであり、それこそが紛れもなく、“レペゼン”なのである。「その場所ならではの 表現で、自分の「生き様」をラップすること」=「自分が所属している地域や所属しているグループを誇りに思い、そこを代表する気持ちを持ち発信すること」が等号で結ばれる。 つまり、「自分のアイデンティティーと地域やグループのアイ デンティティーは同一である」のだ。自分と地域は切り離せないし、自分とグループは切り離せない。”

(「HIPHOP における”レペゼン”という行為から 考察する、ラッパーと地域の関係性」)

しかしこの地域性の強さは常に排外主義と表裏一体の関係にある。過熱した「俺たち最高!」は裏を返せば「俺たち以外最低」なのだ。

そもそもヒップホップカルチャーを担ってきたのは、70〜80年代であれば「ヤンキー」とか「暴走族」とか呼ばれていた層である(彼らもまた地域内で「族」を作り、「ヨソ者」と抗争を繰り広げた)。そしてヤンキーや暴走族が反社会組織や右翼団体としばしば蜜月関係にあったように、同じ原脈をもつヒップホップカルチャーもまたそうした勢力と深い関わりがある。

要するに、ヒップホップの根底には二つの相反する系列が潜んでいる。一つは全世界を分け隔てなく接続する越境性、もう一つは過熱した地域愛がもたらす排外主義的ナショナリズムだ。

ARMY VILLEGEの面々は、ヒップホップが宿命的に背負い持つ上記のアンビバレンスに深く葛藤する羽目になる。その契機となるのは、彼らの活動拠点である山梨県甲府市界隈におけるブラジル人ヒップホップコミュニティの台頭だ。彼らは界隈内のハコを定期的に借り上げ、夜な夜なヒップホップイベントを開催していた。しかしもともと甲府を根城にしているARMY VILLEGEにとって彼らの「侵略」は歓迎できたものではない。案の定ARMY VILLEGEとブラジル人コミュニティは衝突を起こし、互いの仲は険悪化する。

クルーの中でリーダー的存在の猛は、外国人労働者の大量流入のせいで自分の仕事のパイが奪われているということもあってか、次第に移民への憎悪を深めていく。一方で他のクルーたちはブラジル人ヒップホップグループ「スモールパーク」の非言語的なパッションを虚心に認め、自らの音楽的モチベーションを高めていく。

言わずもがな、ここではブラジル人たちは「豊穣な音楽的異郷」と「憎むべきヨソ者」を同時に備えた存在としてARMY VILLEGEの前に立ち現れている。それはヒップホップが抱える矛盾性を否応無く露呈させる。ゆえにARMY VILLEGEは正と負の両方に向かって分裂を遂げる。猛は旭日旗はためくミリタリーグッズ店に売られていたナイフでブラジル人クルーを刺し殺す。警察に引き渡されていく猛を見送る他のクルーたちの視線は冷たい。

<言葉を交わしても容易に達成され得ない民族融和>

本作には主人公的な立ち位置の登場人物が二人いる。一人はARMY VILLEGEの猛で、もう一人は現場作業員の精司だ。精司は現場作業員である自分自身に屈辱と誇りを同程度に抱いている。泥にまみれ「土方」と揶揄される職業。しかし一方でどんな時代においても絶対に食いっぱぐれることのない職業。しかし時代の趨勢とともに現場作業員をめぐる処遇も変容していく。

本作の公開は2011年の冬だが、本作の撮影は東日本大震災より前、すなわち2009〜2010年頃に行われた。これは2008年のリーマンショックの直後であり、北京オリンピックの直後でもある。ちなみに日本はリーマンショックの影響が他の先進国よりも色濃かった。また各地で鉄鋼の盗難被害が多発するほどの興隆をみせた北京オリンピック特需も、オリンピックの終了に伴い沈静化していった。そして日本は未だ出口の見えない未曾有の不景気へと突入していくこととなる。

劇中、幾度となく反復される従業員のリストラシーンは、こうした当時の暗澹たる時勢を反映したものであるといえる。日本人だろうがブラジル人だろうが、不景気はお構いなしに人々から労働の権利を剥奪していった。しかし日本人であるならばまだいい。「日本は天国だ」という甘言に踊らされ一家総出で日本に移住してきたブラジル人たちは経済的困窮から故郷への帰投を余儀なくされる。それらを見送る他のブラジル人たちのセリフもまた悲痛この上ない。「俺もすぐ行くよ」。

留まるところを知らぬリストラの連鎖は精司にも波及する。当然、彼の現場作業員としてのプライドは完全に瓦解してしまう。追い討ちをかけるかのように、彼の妻である恵子は資本主義の権化のような政治家に入れ込み、後援会の主要メンバーとなってしまう。

そんな彼の唯一の精神的拠り所となるのがタイ王国の存在だ。彼は現場で出会ったタイ人帰りの保坂にタイパブへ連れて行かれる。精司は「食いっぱぐれない現場作業員」という神話にヒビが入っていく現実から逃避するように、タイパブ嬢のミャオにのめり込んでいく。保坂とミャオを通じて、精司のタイへの憧れは次第に強まっていく。

終盤、精司とミャオは不倫旅行に出かける。ここからの二人のやり取りは民族融和というものがいかに困難であるかを示唆している。納豆を美味しそうに頬張る精司と、嫌がるミャオ。精司が冗談混じりに「日本人なら納豆くらい食えなきゃ」と嘯くと、ミャオは納豆に手をつける。精司が制止すると、ミャオは「私は日本人になりたいの!」と喚く。その後、精司はミャオに「一緒にタイに行こう」と持ちかけるが、ミャオは激しく反対する。彼女は精司のタイへの傾倒ぶりの正体が、無責任なユートピア幻想であることを見抜いていた。楽園などどこにも存在しない。「資本主義は悪」というテーゼは正しいが幼稚である。自分の稼ぎで祖国の家族を養っているミャオにとっては、高尚な思想が何ら自分らの生活に寄与しないことを知っている。だから彼女は決然と言い放つ。「私はお金が欲しい!」

異なる民族と民族の間には、情緒・文化的な溝のみならず経済的な溝もまた横たわっているということ。言葉や所作で前者を埋めることはできても、後者はそうはいかない。しかし前述の通り、「資本主義は悪」と叫ぶことは現実を微塵たりとも好転させない。行き場を失った精司が死ぬ前の走馬灯のような光景を幻視したのちに無人のシャッター街で立ち往生を迎えるのは必然的な帰結だといえる。

<カットとカットの間にのみ顕れる融和の可能性>

とはいえ本作はごく単純な民族断絶というニヒリズムには帰着しない。物語上は決定的な断絶を迎えたにもかかわらず、これは一体どういうことなのだろうか。私が着目するのは、本作における巧みな「編集」だ。

ソ連の映画理論家レフ・クレショフは「クレショフ効果」という有名な説を提唱している。これは「映像群がモンタージュ(編集)され、映像の前後が変化することによって生じる意味や解釈の変化(ウィキペディアより)」のことを指す。例えば「首を縦に振っている男」のカットがあるとする。その直前に「指揮棒を振る指揮者」のカットが挟まれていた場合と「授業をする大学教授」のカットが挟まれていた場合では、男が首を振っている理由に解釈の差異が生じる。前者では男は「リズムに乗っている」ように見え、後者では「納得し頷いている」ように見える。

要するに映画はカットを操作することによってどこまでも壮大な虚構を生み出すことができる。前後に空を仰ぐ群衆のカットがあるがゆえにゴジラは「着ぐるみプロレスラー」ではなく「巨大怪獣」たり得るのだ。

さて、それでは本作の場合は何と何が接合された結果として何が生まれているのか。

最も印象的なのは中盤、精司たちが重機の故障により仕方なくスコップで土脈を手掘りするシーンだ。そこにスモールパークのリリックが重なり、そのまま彼らのカットへと移行する。スモールパークのリリックは異国の地で奮闘するブラジル人たちをエンパワーメントするようなナショナリスティックなものだが、それが掘削作業に勤しむ精司たちと重なり合うと、あたかも普遍的な労働者讃美歌のような響きが生まれる。物語上は一度たりとも接点がない、あるいは敵対しているはずの日本人労働者とブラジル人コミュニティが、巧みなモンタージュによって通じ合い、連帯し合う。

こういったシーンは他にもある。例えば、精司たちがタイパブで飲んだくれているカットと、スモールパークがライブハウスでライブしているカット。おそらく意図的にイマジナリーラインを厳守した二つのカットは、まるで両者が同じ空間に存在しているかのような錯覚を引き起こす。つまり、精司たちがスモールパークのライブを鑑賞しているかのようにみえるのだ。

これらの編集上の重なりがもたらすのは、日本人と移民の民族融和の可能性だ。確かに、本作の物語が何より雄弁に語っている通り、民族融和というものは非常に難しい。本作の物語が安易な「解決」に安住しなかったのは、民族融和の困難性に対する真摯さの表れだといえる。しかし一方で決して「断絶は仕方ない」ということが言いたいわけでもない。

さて、本作はこのアポリアを解消すべく「物語」を離れ「編集」へと目を向けた。一見して全く無関係なカットとカットを繋ぎ合わせることでそこに共振を発生させ、それを僅かな民族融和の可能性として画面上に提示したのだ。ゆえに本作は絶望的な物語でありながらも、巷間に溢れる露悪趣味的な「胸糞映画」とは一線を画しているといえる。

因果