劇場公開日 2011年2月19日

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「来世なんて、あるのが当たり前。この世で生きる意味をしっかり見つけなさいと説く本作。さて、皆さんはどんな答えを導くことができるでしょうか。」ヒア アフター 流山の小地蔵さんの映画レビュー(感想・評価)

5.0来世なんて、あるのが当たり前。この世で生きる意味をしっかり見つけなさいと説く本作。さて、皆さんはどんな答えを導くことができるでしょうか。

2011年1月26日
PCから投稿
鑑賞方法:映画館

 本作は、ズバリ『来世』がテーマ。世間的な常識を乗り越えて霊的な人生観に目覚めるというものです。小地蔵にとっては、当たり前の世界ですが、この世で普通に暮らしている人にとって、新鮮な感動を呼び起こすことができる作品でしょう。
 来世がテーマだからといって、邦画の『大霊界』のようにあの世を好奇心たっぷりに鳴り物入りで描く作品とし違っています。
 あくまでこの世で普通に生き、霊的なことに疎く生きた人たちの目線でストーリーは語られていきます。そういう人でも、人が沢山死ぬ大きな事故に遭遇したり、大切な人との別れを経験して、絶望感や無常観に打ちひしがれることがあるでしょう。そんな人が、本作に触れることによって、この世が人生の終わりではないと感じ取ることで、抗いがたい不安を克服していく、そんな作品だと思います。いわば霊的人生観への入門編というべき作品でしょう。
 死亡したマーカスの兄が、ジョージを通じて語りかけるところは、泣かせどころで全体的にヒューマンタッチの佳作としてお奨めできます。

 ストーリーとしては、3人の登場人物のエピソードが同時進行で語られます。
 一人は、テレビキャスターのマリー。自らの臨死体験をオンエアーしようとしますが阻まれたうえに、キャスターまで外されます。それでも臨死体験の謎を究明すべく、独自に来世をテーマにした本を書き、ロンドンで開催されたブックフェアーに著として参加するというもの。
 二人目は、双子の兄を事故で亡くした少年マーカス。もう一度だけ兄と話したいとあちこちの霊能者を巡ったもののニセモノだらけ。そんなマーカスが養子に引き取られて、たまたまロンドンを旅したとき、ブックフェアーに紛れ込んでしまうのです。
 三人目は、霊能者のショージ。作品中唯一のホンモノの霊能者として登場します。しかし本物故に、あの世があるのは当たり前で、霊能力で金を取るのはナンセンスだという罪の意識を深く持っていました。この罪の意識については、後ほど触れます。それでも生活に行き詰まり、兄がセットした霊能相談の仕事から無断でエスケイプして、旅に出ます。 そして、たまたまロンドンに流れ着いたとき、ブックフェアー会場にぶらりと足を伸ばすのです。

 三人のエピソードは、ラスト間際の2時間にわたって交互に展開し、交わることがないのでヤキモキしました。ちょうど最近公開された『クロッシング』という映画で、ニアミスだけで終わってガッカリしたばかりだったので、どうなるのかちょっと心配だったのです。

 ブックフェアー会場で三者が交わったとき、イーストウッド監督が本作に込めたかった意図が濃厚に表現されていきます。
 マリーは、フランスのなかでも唯物論者の巣窟といえるマスコミのインテリに囲まれた職場で、突如臨死体験を言い出したことから、冷遇されてしまいました。誰も分かってくれないという孤独な気持ちを、出版への意欲へと昇華させていったのです。
 けれども、ショージとの出会いでその孤独が癒されそうな展開が暗示されます。
 マーカスは、兄からもう俺に頼らないで、自分で強く生きろと諫められます。兄の霊言が聞きたいという気持ちのなかに、兄への依存心が強かったことをズバリ言われてしまったのでした。オカルト信仰にはまる人は、自立心に欠けるところがあります。さりげなく、この世で生きる人には、自助努力が大事なんだと監督は強調したかったのでしょう。
 それにしても、マーカスが地下鉄事故から逃れることができたことについて、兄のいいざまが括弧良かったです。事故の前に、帽子が突風で飛ばされて、それを追い掛けたマーカスは、地下鉄に乗り遅れてしまい、結果難を逃れたのでした。兄は、「あれは俺の帽子だから、貰っとくよ」とキザな台詞の吐くのですね。泣かせどころのシーンでした。
 ショージは、すっかり厭世的になっていました。霊の世界が分かってくると、この世が仮の世界であることがわかり、向こうの世界こそ本当の世界なんだということが分かってきます。だから、霊言を有り難がるなんてナンセンスで当たり前じゃないかと思っていて、ビジネスとしての霊能者の仕事を引退したわけですね。
 これにはもう一つ、この世的な事情があって、キリスト教圏内では、霊的な人生観や輪廻転生がタブーにされてきたのです。イエスさまのもともとの教えは、ちゃんと入っていたのですが、ローマ教会が成立するなかで、削除されていきました。ローマ教会は、異端を尽く武力弾圧し、イエスさまの教えに戻ろうとしたグノーシス派は、激しい拷問により壊滅させられたのです。中世でも霊的な人生観を唱えるものは、異端審問の魔女狩りの対象とされてきました。それが今日、『天使と悪魔』などダン・ブラウン原作シリーズの主題となってきています。
 だから、何故ショージが自分の能力を呪われた能力というのかというと、彼も当然子供の時からクリスチャンとしての教育を受けてきたから、罪の意識にさい悩まれるのでした。
 そんなジョージがマーカスと出会って、恋の予感を感じます。生まれて初めて、マーカスが「この世で生きていく」意味を掴んだのです。霊的に関心が強すぎると、この世への執着が少なくなる反面、この世での生き甲斐や今世の人生の目的や使命を見失いがちです。監督は、ジョージを通じて、たとえ仮の世界としても、この世でも生きていく意味があることを示したのだと思います。
 それにしてもジョージの演じ方が、一介の悩める凡夫であるところに共感を持ちました。特殊な能力を隠して普通に生きることは、大変な超能力なんです。六神通力といわれているなかで、最高の能力が「普通に市中に生きること」なんですね。
 いつもスーパーヒーローの役柄が多いマット・デイモン(但しデブな詐欺師もやったけれど)ですが、特殊能力を持つ故に悩める凡人ぶりを、凄くうまく演じていました。

 ジョージもそうでしたが、「来世」をテーマにした作品を製作することは、キリスト教国では大変勇気が要ることです。原理的なキリスト教右派から妨害活動を受けてしまう可能性もあったわけです。加えてイーストウッド監督は、熱心なクリスチャンとして知られています。スピルバーグの監督指名をなぜイーストウッドは受けたのでしょうか?

 彼の信仰は潔癖症で、神に問いかけているところがありました。これまでの作品で常に、こんな悲惨な状況でも、出演していたイーストウッド自身が「神はお救い給うのか」と祈りを捧げるシーンが多々あったのです。いま世界でキリスト教信仰が揺らいでいます。教会に通う信者の数が激減し、長引く不況や宗教観対立が原因のテロや戦争の勃発で、キリスト教の救い自体に疑問を持つひとが増えてきているのです。そんな疑念が、イーストウッド監督作品に濃厚に出ていました。
 人生の晩年にさしかかった監督が、今まで避けてきた「死」と死後の世界について、ローマ教会の歴史的束縛を打ち破り、真摯に来世と対峙したのが本作なんだと言えるでしょう。
 来世なんて、あるのが当たり前ではないか、それよりこの世で生きる意味をしっかり見つけなさいと説く本作。小地蔵はちょっと物足りないところはありますが、皆さんはどんな答えを導き出せるでしょうか。

流山の小地蔵