歌うつぐみがおりました

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歌うつぐみがおりました

解説

「月曜日に乾杯!」などで知られる旧ソ連ジョージア出身の名匠オタール・イオセリアーニが1970年に手がけたコメディ。ジョージアの首都トビリシを舞台に、自己中心的でお調子者だがどこか憎めない青年のせわしない日常を描く。

オペラ劇場のオーケストラの一員であるティンパニー奏者ギアは遅刻の常習犯で、練習の時のみならず演奏会にも度々遅刻する。さらに本番中にも出番の合間に会場を抜け出して街へと繰り出し、終演間際に慌てて戻って来てどうにか最後の一打に間に合わせる始末。女性や友人、家族に対してもルーズな彼は、約束を交わしては忘れたり突然家に押しかけたりと自分勝手な行動を繰り返すが、その憎めない人柄は周囲の人々を魅了していく。

日本では2004年開催の特集上映「イオセリアーニに乾杯!」で初公開された。

1970年製作/82分/ソ連
原題:Ikho chachvi Mgalobeli
配給:ビターズ・エンド
劇場公開日:2023年2月17日

その他の公開日:2004年6月19日(日本初公開)

原則として東京で一週間以上の上映が行われた場合に掲載しています。
※映画祭での上映や一部の特集、上映・特別上映、配給会社が主体ではない上映企画等で公開されたものなど掲載されない場合もあります。

スタッフ・キャスト

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映画レビュー

4.0ビターな終わり方

2023年6月23日
iPhoneアプリから投稿

ずっと観たかったイオセリアーニのこの作画。
イオセリアーニ映画祭で劇場で鑑賞。

初期の部類に入る作品なので荒削りさもありつつ、
イオセリアーニっぽさは満載。
白黒の映像も美しい。
生き急ぐような、主人公だけど
永遠に周りの人に迷惑かけるけど、誰にも嫌われない感じがまさにイオセリアーニ。
ビターな終わり方。

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madu

4.0面白い

2023年5月12日
PCから投稿
鑑賞方法:映画館

冒頭、クレジットのグルジア文字が独特でカッコいい。撮影技術の問題なのか、1970年の映画にしては絵柄がいちいち古めかしい。寓話っぽい話なのだが、最初の30分ぐらい、主人公のとっ散らかった行動が精神崩壊を起こした人のように思えて、非常にしんどい。彼が若者なのか、そこそこおっさんなのかも、その微妙な風貌からよくわからなかった。だが周囲の人々の反応などを眺めていくうちに、彼が特殊なサイコパスなんかではないと、段々腑に落ちてくるのが面白い。画面に映らない時も、常にどこかで鳴っている音楽と、やかましい騒音が耳に残る。驚いたのがグルジアに公衆浴場文化があったこと。しかもサウナ的な感じではなく、日本みたいに浴槽まであるとは!

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どんぐり

3.5教科書に載せたい類の映画。ってだけ。

2023年5月5日
スマートフォンから投稿
鑑賞方法:映画館
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bloodtrail

4.0イオセリアーニ初期の瑞々しい音楽映画。レストランでハモる親父たちが胸アツすぎる!

2023年3月22日
PCから投稿
鑑賞方法:映画館

『歌うつぐみがおりました』を語る視座は、いくつか存在すると思う。
まずは、イオセリアーニ映画のなかではもっともヌーヴェル・ヴァーグ(とくにゴダールの初期作およびトリュフォーのドワネルもの)への傾斜を感じさせる、青春の彷徨の物語として。
それから、近代化と都市化が進むなかで、常に「時間」に追われがちな現代人の「今」を描く、寓話的/社会批評的な映画として。
あるいは、「規範」や「役割」からとことん「自由」に生きようとするグルジア青年の姿を描くことで、すべてをノルマとルールで縛ろうとしてきたソヴィエト政府への反撥をこめた部分もあるかもしれない。

だが、この映画でいちばん僕の印象に残ったのは「音楽」だった。
そもそも今回の主人公は、プロの楽団員。
わざわざタイトルにも「歌う」と入れてあるくらいで、
監督になる前は数学者と作曲家を志していたイオセリアーニが、最も音楽にこだわってつくった映画だともいえる。ちなみに、この作品の英語題を見たら「つぐみ」は「Blackbird」となっていて、これは西洋でクロウタドリと呼ばれる、からだが黒、くちばしが黄色のツグミ類だ。
ヨーロッパでは、街中でも見られるきわめて一般的な鳥だが、ロビン(セイヨウコマドリ)やナイチンゲールと並んで「声が美しい」ことで知られる。
冒頭でカゴのなかで鳴いているのがおそらくそれで、自由を求めてもがく姿がそのまま主人公のギアにオーバーラップする。

どんな音楽に胸打たれたかというと、
とにかく、終盤に出てくるレストランでの合唱シーンが素晴らしすぎる。
ジョージアの文化として名高いポリフォニー(多声合唱)の民謡。
酒の進んだ席で、男たちが仲間や隣席のグループと声を重ねながら歌を合わせてゆく。
なんて美しいシーンだろうか!?
おそらくジョージアでは、これが日常茶飯事なのだ。
オッサンたちがレストランでなんとなくハモりだすのが。
見ず知らずの男たちが、ハモりで友情を交わすのが。
そのあとの余韻を残すピアノソロも含めて、本当に奇蹟のようなシーンだ。

オッサンたちのポリフォニーは、その前の音楽学校(?)のシーンでも出てくる。
ピアノのまわりで10人くらいで歌いながら、音程のくるっている歌い手を指摘しているところに、さらっとギアが交じって調整してしまう、これまた印象的なシーンだ。
何より、ポリフォニーの伝統がクラシック音楽を志す青年たちの間でもふつうに共有されているのが興味深い。ジョージアでは、アカデミックな音楽と民謡としてのポリフォニーは地続きで、シームレスな存在だということだ。

それから「曲」でいえば、全編に流れるバッハ『マタイ受難曲』のアリア「神よ憐みたまえ」の旋律が、なんといっても胸に響く。
これは、単にBGMとして付されているわけではない。
冒頭、主人公が草原で寝そべっているときに、曲の断片が小刻みに流れる。
彼の手には紙とペンがある。おそらく作曲しているのだ。
そのときあふれだす楽想が、『マタイ』の形をとって流れだす。
いわば「神よ憐みたまえ」は、彼が心の中で奏でている自らのテーマ曲のようなものだ。
あとのシーンで、彼が作曲を試みようと白紙の五線譜に向き合うときも、脳内で何度もリフレインしているのは、「神よ憐みたまえ」の冒頭の旋律だった。

「神よ憐みたまえ」といえば、アンドレイ・タルコフスキーの『サクリファイス』(82)を思い出す人も多そうだが(ちなみにタルコフスキーは『歌うつぐみがおりました』について映画評論家レオニード・コズロフに対して「非常によい映画だ」と述べているそうだ。観ているということは、楽曲の使用に関して影響を受けていても当然おかしくはない)、僕はこの映画を観ながら、ピエル・パオロ・パゾリーニのことを思い出していた。
彼はこの曲を『奇跡の丘』(64、キリストの伝記映画)でほぼ主題曲同然に用いている。
さらにいえば、長篇第一作『アッカトーネ』(61)では、同じ『マタイ受難曲』の終曲「われら涙流しつつひざまずき」を全編に渡って流しているのだが、この映画のラストが『歌うつぐみがおりました』と実によく似ているのだ。
『歌うつぐみがおりました』のラストは、ふつうに考えると『勝手にしやがれ』(60)へのオマージュのように思えるのだが、『アッカトーネ』のラストがそもそも『勝手にしやがれ』へのオマージュのような感じなので、『マタイ受難曲』とのダブルパンチでイオセリアーニがいかにも『アッカトーネ』を意識しているかのように思える、というわけだ。
ちなみに、事が起きるちょっと前に、男同士の友情を物語る美しいエピソードが挿入されることや、事が起きた後に人々が大勢駆けつけてくる情景描写もよく似ている。
世の理からはずれて生きることを自らに強いてきたような男が、今までに散々やらかしてきたことの報いを受けるかのように終わる「応報感」も、なんだかそっくりだ。

その他、音楽に関して気づいたことをいくつか、箇条書きで。

●出だしで演奏途中のピットにちゃっかりギアが入って来る印象的なシーンで流れているのは、ワーグナーの『ワルキューレ』の第一幕フィナーレ。『ワルキューレ』の第一幕冒頭はたしか嵐の音楽の後、ティンパニの雷のとどろきが出てくるのだが、そのあとはどうだったんだっけ? さすがにわからん。
でもあそこは兄妹姦を成し遂げたうえ、無敵の剣ノートゥングを手に入れたジークムントとジークリンデが婚家から逃げだすシーンなので、ギアの全能感や恋にうつつを抜かす感覚、自由を求めて束縛から逃げまくる感覚と呼応させた楽曲選択なのかもしれない。
あるいは、彼の心のなかで鳴っているバッハと、演奏しなければならないワーグナーとのギャップみたいなものが強調されている、という考え方もできるかも。
なんにせよ、演奏会でこういう行為はあまり見たことないけど(バンダでいったん抜けて戻って来るってのはよくあるが)、たぶん歌劇場やバレエがメインのピットオケだと、実際にオケメンがやってることなんだろうね。どうせ誰も見てないんだし。

●子供たちにギアが聴かせるオルゴールは、言わずと知れた『乙女の祈り』。練習室でクラリネット奏者が練習しているのは、モーツァルトのクラリネット協奏曲の第一楽章。他にも僕には曲名のわからないチェンバロのバロック曲が冒頭他何カ所か、あとマーチとかタンゴとかバレエ曲とか(あのバレエ曲は曲名がわからないので非常にモヤモヤする。シーンを見る限り、黒いチュチュのバレリーナがいるから『白鳥の湖』かとも思ったが、曲に聞き覚えがない。誰かご存じの方がいらっしゃったらぜひコメ欄で教えてくださいw)。先に述べたジョージア民謡のポリフォニーも含めて、本作には音楽が満ちあふれている。

●ポリフォニーの2シーンに加えて印象的なのが、女性が単独で歌う少しシャンソンみたいな音楽(ギターで伴奏したり、ギアがピアノ連弾で伴奏したり)。まったく知識がないが、あれもジョージアの伝統的な音楽なのだろうか。パーティの席上で歌うのが当たり前みたいな空気だったけど。とても良い曲だった。

●トビリシの歌劇場付き楽団で指揮をやっている俳優の顔をどこかで見た記憶があると思って、誰だっけと登場人物表を見たら、こいつ実際にトビリシ交響楽団を創設して芸術監督としてずっと振っていたジャンスク・カヒッゼ本人じゃねえか。てことは、オケのメンバーもトビリシ国立歌劇場の本職たちということは十分にありうるな(1972年の時点ではまだ交響楽団は創設されていない)。
カヒッゼのCDは、2010年代に入ってある程度復刻されていて、ボリショイ版の『ガイーヌ』全曲に関しては、彼のモスクワ放響盤がベストの1枚とされている。トビリシ交響楽団との音源もそれなりに残っているが、映画をご覧になれば一聴おわかりになるとおり、決してうまいオケではない(笑)。
指揮者だって、ある程度の演技やボディアクションくらいは出来ないと、目顔で「弾きたい音」をオケに伝えることは難しいかとは思うけど、まさか「楽団員たちと一緒にお風呂でシャワーを浴びている」シーンにまで出演するとは……。というか、台詞もちゃんとこなしてるし、ふつうに演技しまくってて笑う。
ちなみに本作には、ジョージアを代表するポリフォニーアンサンブルの代表も客演しているらしい。まさに「本物志向」の配役だ。

●そういえば、イオセリアーニってハチャトゥリアンのこと、どう思っているんだろう? 劇伴で他の映画でもあんまり使っていないのに加えて(もちろん僕の知らない曲を使ってて気づいていない可能性は十二分にあるけど)、この映画と同じ日に観たドキュメンタリー『唯一、ゲオルギア』でも特段の言及がない(うとうと寝落ちしてて見逃した可能性は十二分にあるけど)。ピアニストのエリソ・ヴィルサラーゼ(若いけどそうだよね?)とかまで出してきてるのに、なんでハチャトゥリアンを出さないのか、結構不思議な感じ。まったく評価していないとか? アルメニア人だから? 体制側に与した人間だから?

― ― ― ―

ギアの極端な「行動力」には、一種独特なものがある。
常に忙しくしていて、ひとところに留まることがなく、時間を惜しむように予定を組み続けているが、四六時中ダブルブッキングをしでかして、いろんな予定をすっぽかしまくっている。
「時に追われている」割に「うまく時間が使えていない」。
にもかかわらず、なぜか彼は概ねみんなから愛されている。

「猛烈に多忙」な人間が出てくる映画で、僕が偏愛してやまない作品に、アラン・ドロン主演の『プレステージ』という隠れた名作がある。
美術ディーラーの主人公が、全編にわたってただ忙しなく働き続け、ハードワークの合間に逢引も精力的にこなし、過活動を貫いたあげく衝撃のラストを迎える。ジャンルすらよくわからない不思議な映画で、出来も正直たいしたことないのだが、僕は自分にも大いにそういうところがあるので、いつ見なおしても共感で胸がいっぱいになる(笑)。

ただ、本作の主人公ギアからは、『プレステージ』の主人公のように、あまり「生き急いでいる」感じはしないし、「せかせかしている」感じもしない。
とにかく「予定に拘束されることを嫌い」「自由であることを目的化している」。そういう生き方だ。
でも「敢えてそう生きている」だけじゃなくて、やはりこうなっちゃう人というのは、もともとがそういう「性分」なんだと思う。
綱渡りでなんとかやってはいるが、予定を忘れていたり、ダブルブッキングしてたり、実はかなりのうっかりさんだ。注意不足のせいで、あぶない目にも結構あっている(落ちてくる植木鉢とか、背後で口を開く奈落への陥穽とか、ラストへの布石が結構入念に貼ってあることに注目)。

要するに、この映画を撮った当時はほぼなかった概念だろうとは思うけど、ギアってかなり重度のADHD(注意欠陥多動性障害)なんじゃないだろうか、というのが僕の意見だ。
なぜなら、やはりいつも予定をぎゅう詰めにして動き回りつつ、あちこちでスカタンばっかりやらかしている僕自身が、絵に描いたようなADHDだから(これは専門家である嫁の見立てなので、たぶん間違いない)。なんとなく、ギアの思考回路とか行動規範のありように理解できるところがあって……。僕も、授業中抜け出したり騒いだりはほんと小学校~大学まで常習犯で、四六時中担任やら親やらにボコボコにされてたもんな。

とはいえ、あそこまで女を渡り歩く感覚は、僕にはよくわからない(当方、妻一筋!)。
それに、これだけ回りに迷惑をかけまくっているような人間は、たとえ理解はできたところで共感はしがたいし、親近感もわいてこない。
イオセリアーニが、ある種の自己投影と共感性をもって登場させてくる主人公って、僕の道徳観からすると微妙に「アウト」のことが多くて、結構困るんだよね。

たしかに、憎めない愛嬌のある人物ではある。
でもやっぱり僕個人としては、ギアみたいなやつと同じ職場では働きたくないなあ(笑)。

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じゃい
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