劇場公開日 2023年8月18日

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「巨匠三人によるポーの映像化オムニバス。フェリーニ作は才能迸る彼の最高傑作のひとつ。」世にも怪奇な物語 じゃいさんの映画レビュー(感想・評価)

4.5巨匠三人によるポーの映像化オムニバス。フェリーニ作は才能迸る彼の最高傑作のひとつ。

2023年8月19日
PCから投稿
鑑賞方法:映画館

アップリンク吉祥寺の『ホラー秘宝まつり2023』にて鑑賞。
毎年夏になるとキネカ大森と吉祥寺で開催されているこの企画、70~80年代のジャッロやホラーの近作に交えて、古めのマスターピースやハーシェル・ゴードン・ルイスのゴアムーヴィーなんかをやってくれるので、昔ヴィデオで観ただけの懐かしい傑作を映画館で観られて大変重宝している。
今回の目玉のひとつが、こちら4K版の『世にも怪奇な物語』だ。

60年代末にすでに巨匠であったロジェ・ヴァディム、ルイ・マル、フェデリコ・フェリーニの三人が参加したエドガー・アラン・ポー原作のホラー・オムニバスで(当時、この手の複数監督が参加する艶笑譚や怪奇もののオムニバス映画が、フランスやイタリアで大流行していた)、当初はオーソン・ウェルズやルキノ・ヴィスコンティ、ジョセフ・ロージー、クロード・シャブロルあたりも参加予定だったらしいが、結局頓挫したり合流できなかったりで、上記の三人に収まったとのこと。

同じポー原作で競作するといっても、原作の扱い方や「恐怖」の捉え方、ゴチック的な雰囲気の出し方には、三者三様の個性が明確に出ていて、実に面白い。
内容的には、とにかくフェリーニ作の出来が図抜けていて、残り二人の「前座」感がきつくて可哀想だが、それぞれの味はちゃんと感じられるし、総じて面白いオムニバスだと思う。

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第一話『黒馬の哭く館』。
原作は、ポーの「メッツェンガーシュタイン」。
映画内の使用言語は英語。
ロジェ・ヴァディム監督が、当時の奥さんだったジェーン・フォンダを主演に撮った呪いの物語で、前作『バーバレラ』を撮ってから、すぐに撮影にとりかかったらしい。
原作は、15歳の少年当主フレデリックと敵対する老当主ウィルヘルムの名家同士の抗争話となっているのを、わざわざ「女当主と従兄弟」のちょっと「逆・嵐が丘」めいた愛憎の物語に変えたのは、もちろん第一義的には、妻のジェーン・フォンダにヒロインをやらせるためだろう。

ロジェ・ヴァディムのアプローチは、あくまでも「モチーフ」主体だ。
ジェーン・フォンダの美しい顔貌と肢体、そしてエキセントリックな衣装。
荒涼たるブルターニュの光景と、古城、廃墟、森林、海景の美。
エロティックな器具と、刀剣、蝋燭、タペストリーといった退廃的な調度。
黒馬、仔豹、洋犬、キンメフクロウといった動物たち。

とにかくインパクトのある「かたち」「見た目」のモチーフをかき集め、贅沢に並べて目を楽しませる。そのモチーフの美しさと奇矯さ、不気味さと博物学的な魅力によって、観客の関心を掻き立て、視覚的な幻想にひたらせる。
まずは、そこに主眼が置かれている。
描写はあくまでイメージ先行で、「美しくコケティッシュなジェーン・フォンダの“牝”の魅力」を、ひたすらゴチック的な雰囲気のなかで堪能することが、映画のほぼすべてといってもよい。
そのぶん、各人の演技はほぼ学芸会レベルで、カメラワークもたいして凝っていない。
黒馬を騎乗するシーンなどは、もう少しヴァリエーションを持たせないとさすがに退屈だし、総じて同じようなシーンのリピートが多すぎる。

一点、あまり指摘されない点だが、「黒馬」「炎」「飛び込む」というキーワードで容易に想起される物語がある。
そう、『ニーベルングの指輪』に登場する、ブリュンヒルデと愛馬グラーネだ。
実際、映画のなかでジェーン・フォンダは胸甲のような金属製の服を着ているし、弓の技量などでアルテミスばりの正確さを見せつけている。
罠に囚われたフレデリックをウィルヘルムが助けるのが二人のなれそめというのも、いかにもブリュンヒルデとジークフリートの出逢いを想起させる。
何より、相手役に実弟のピーター・フォンダがキャスティングされているのが意味深だ。
ブリュンヒルデとジークフリートは伯母と甥であり、ジークフリートの父と母は双子の兄妹。このへんが反映されていると考えるのが妥当なところではないだろうか。
要するにロジェ・ヴァディムは、原作の「悪の少年」を妙齢の女性であるジェーン・フォンダにすげ変えるにあたって、黒馬の連想から、そのキャラクターにブリュンヒルデをオーバーラップさせることを思いついた。そこから、愛しても報われない相手役に「ジェーン・フォンダの実の弟」をキャスティングするという奇妙な選択が生まれたというわけ。
別になんの資料を見たわけでもないので単なる僕の当て推量だが、意外といいところをついているのではないかと思っている。

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第二話『影を殺した男』。
原作は、ポーの『ウィリアム・ウィルソン』。
映画内の使用言語はフランス語。
ルイ・マル監督が次作の資金集めのために引き受けた作品で、原作はいわゆる「ドッペルゲンガー」ものの古典。
内容は、ポーが『黒猫』や『告げ口心臓』など複数の作品で繰り返してきたお得意の構図で、いかにもピカレスクな悪漢が犯罪を企てるが、自らの内なる「良心の声」が分離したドッペルゲンガー的な存在に虚をつかれ、犯行を暴かれ破滅するというパターンの物語だ。

告解で自らの過去を語るという設定や、少年期のサディスティックな滑車吊り下げのいじめシーン、死体解剖のシーン(ポーの『息の喪失』あたりを意識しているか)、いかさまトランプの相手が貴族から女性ギャンブラー(クラウディア・カルディナーレにしか見えないブリジット・バルドーw)になっているなど、個々のイベント自体はかなりいじっているが、話の大筋はほぼ原作どおりで展開している。

ルイ・マルの手法は、モンタージュ主導だ。
冒頭の墜落シーンから、かなり凝った時系列のシャッフルと、クセの強いモンタージュが仕掛けられている。その他、回るカメラ、極端なズーム、移動ショット、走ったり剣戟したりの動的なシーン、ドッペルゲンガーの視点切り替えなど、「撮り方」だけで映画を成立させようという、至極まっとうな使命感をもって作られている。
そのわりに、物事の描写自体は、意外なくらい即物的だといえるかもしれない。
実際に起きた事実をなるべくそのままに、比較的淡々と描写している。
これは原作自体の、なんだかポーにしてはやけに抑制的で即物的な文体と呼応させている部分もあるのだろう。
逆にそうであるからこそ、主人公ウィリアム・ウィルソンの嗜虐性や残忍さが際立って感じられるし、下世話でエロティックで露骨なSM描写も、ある種の生々しさを持ちつつも、なんとなく受容できる形に仕上がっている。

ただ個人的には、ルイ・マルにとっては不本意で手慣れないSM描写を無理やり入れ込んだがゆえに、解剖台での女性凌辱をあのまま続けたとして、ウィルソンと同朋たちはどうあの場を収めるつもりだったのだろうとか、バルドーの半裸鞭打ちは許容するのに、イカサマをやっていたと知れた途端に掌をくるっと返す取り巻き連中が不自然すぎるとか、いろいろとうまくいかない部分が残ってしまっている気はする。
あと、エクストラカードとパームを使ったあんな古典的イカサマやって、誰も気づかないなんてことがあるんだろうか、とか。

とはいえ、とにかく絶頂期のアラン・ドロンの美貌ががっつり捉えられているのは確かで、とくに堅めの制服とアラン・ドロンの相性の良さがうまく利用されているのが実に良い。
アラン・ドロンの少年時代を演じている子役も、本家に負けないくらいの澄んだ美貌を備えており、総じてアラン・ドロンをこよなく愛する僕としては、十分にご褒美たり得る映画だといえる。

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第三話『悪魔の首飾り』
原作は、ポーの『悪魔に首をかけるな』。
映画内の使用言語は、イタリア語と英語。
「落ち」以外は、ほぼ原作を無視した完全オリジナルといっていいくらいの、フェリーニ流魔改造が施されており、舞台を現代のショービズ世界に置き換えている。

こちらは、控えめにいってもすごい傑作。
ちょっとぶっ飛ぶくらいの完成度で、20年ぶりくらいに観て、その真価を改めて認識させられた。50年以上前の映画なのに、まるで古びていない。

フェリーニの武器は、想像力と幻視力だ。
あふれかえる綺想と悪夢的ヴィジョン。
乾いた笑いとうつろな恐怖。
伝統的な白塗り芸の演劇をベースとした、妖しさ満点のキャラクターたち。
監督は、映画スターがローマの空港に降り立ったその瞬間から、ノンストップでぶっとんだセンスと畸形的な造形性をハイテンションで投入しつづけ、観客に息つく間を与えない。

フェリーニ様式が確立して以降の映画としては、もっとも商業的に観客に歩み寄った内容(通俗的なホラー)で、極端な難解さを回避しているうえに、時間的にも1時間弱と気楽に愉しめて、かつフェリーニの個性がこれ以上ないまでに噴出している。
しかも、最初から最初まで異様なテンションでぶっ飛ばしてて、すべてのフェリーニ映画のなかでも、最も「動的」で「煽情的」なヴァイタリティがみなぎっている。
個人的には、ある意味彼の「最高傑作」じゃないかと言いたいくらい、僕はこの短い幻想譚を愛している。

フェリーニが、この作品の中核を成す怪奇的なヴィジョンとして、マリオ・バーヴァの『呪いの館』(1966)から「白いボールを持った白い服と金髪の少女の幻影」を借りてきたことはよく知られているが、同じ悪魔(悪霊)キャラとしては、本作のほうが格段にスマートでインパクトのある使い方がなされていると言える。
ここぞというところで、逆回しのボールのトリック撮影が出てくるのは、ジャン・コクトーのセンスをちょっと想起させるし、とにかく少女の上目遣いの半笑いがトラウマ級に薄気味悪すぎる(笑)。
そのインパクトはとにかく強烈で、皆さんお気づきの通り、本作における少女の佇まいや登場の仕方は、のちの日本で一時代を席捲した一連のJホラー群……『呪怨』や『リング』といった「子供/女性の霊が出てくる」あらゆる映画において、圧倒的な影響を及ぼしている。

それと、徹底的に奇妙な登場人物たちで場面の隅から隅まで埋め尽くしていく、フェリーニ特有の悪夢的な幻視性の淵源を辿るとすれば、僕はヒエロニムス・ボスやピーテル・ブリューゲルの描く15~16世紀の地獄絵があるのではないかと思っている。
奇抜な服装、奇矯な行動、グロテスクな顔貌、恐怖と笑いの混淆。
ボスの奇怪なキャラクター群は、そのままローマの空港へと移入され、ロックスターのパロディであり、現代のヴァンパイア(生ける死人)の装いを与えられたテレンス・スタンプの到着を盛り上げる。
悪夢的なヴィジョンはやがて空港からあふれ出し、オレンジ色の夕景を走るタクシーを経て、映画賞の受賞式典をも覆い尽くす。
ラスト近くで出てくる、遠景の高所で窓から光が差していて、そこから人物が声をかけてくるイメージ。あれなどは、まさにヒエロニムス・ボスの絵画内で何度も観てきた描写そのものだ。

それともう一つ。
テレンス・スタンプが首に厳重に巻いているネッカチーフ。
あれを彼がしきりに触ったり、ほどきかけたり、巻きなおしたりすることで、観客の意識をそこに集中させる演出は、なかなかに老獪で狷介だと思う。
あれを取ったら、いったいどうなるのか?
ヴァンパイアの眷属のように、首筋に二つ穴がぽっかり空いているのでは?
あるいは、デュラハンのように、すでに横にすっぱり切れていて、そのままころりと落ちてしまうのでは?
そんな妄想を観客に掻き立てるうまいブラフ、あるいはギミックとして機能していて、本当に感心する。

最後まで観終わったとき、われわれは初めて、この物語がアンブローズ・ビアスの『アウル・クリーク橋の一事件』(ロベール・アンリコの『ふくろうの河』の原作)に似た叙述構造を持った話であったことに気付く。
同時に、凋落したプライドのやりどころや、それに伴う激しい希死念慮といった、きわめて現代的でアップトゥデイトなテーマをも扱っていることに、衝撃を受けることだろう。

『悪魔の首飾り』1本を観るためだけでも、『世にも怪奇な物語』は足を運ぶに値する映画だ。超おすすめです。

じゃい
Mr.C.B.2さんのコメント
2024年5月8日

「悪魔の首飾り」だけでも、もう一度観たかったのですが行けませんでした。一昨年までは武蔵野市に住んでいたのでアップリンクはホームグラウンドだったのですが。

Mr.C.B.2