ピクニック at ハンギング・ロックのレビュー・感想・評価
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神話かと思った。
神話と言われたって頷ける。
真っ白なワンピースでそろえた少女たちが、くすぐったそうに笑い合いながら、セリフらしいセリフも無くピクニックに出かける。野性味のある岩場でおもいおもいくつろぐ姿は、まるで天使のよう。そんな宗教画すらあった気がする。
その後の急転直下、失踪とその混乱も、ミステリアスな現象と描写ばかりで、もはや神秘的に思える。
そんな霞の中の話のようで、解釈はもとより、眼の前の事態をただ呆然と眺めること以外に何もできなく、一体全体これはなんだったんだろう、と。なにを見ていたんだろう、と茫然自失だった。
無理やり理解しようとするなら、天使が神の岩場で遊んで、人間をからかってました、みたいな事態で、だから神話かと思った。いまだにどうにも収められないモヤモヤが渦巻いている。。
ファンタジー
ふんわりした印象を受けました。
理解できないところも多かったですが、それで良いのだと思います。
原作を読んだら、謎が解ける部分書いもあるのでしょうが、そのままにしておきます。
オーストラリアのイギリスを感じることができて、新鮮でした。
インドとはまた違いますね。
騙してるつもりはないだろうけど、 勝手に騙された 実話だと思って見...
騙してるつもりはないだろうけど、
勝手に騙された
実話だと思って見ちゃった
でも楽しめた
全編通して不思議な空気感があって、
異様な感じがしてそのせいで集中させられた
『え?これで終わり?』と思ったのは、
そこそこはまったからだと思う
1900年 女生徒女教師失踪事件に揺れ動く周囲の人々 少女達の危うさ・儚さ・美しさを映す映像が素晴らしい
1900年。女生徒女教師失踪事件に揺れ動く周囲の人々を描く。
事件の謎やメタファーとして散りばめられた数々の細かいディテール。
少女達の危うさ・儚さ・美しさを映す映像が素晴らしい。
その時代のドレスがクリーム色で統一され幻想的なビジュアルと’70年代独特のソフトな色調が見事。
◇未開のオーストラリアと少女たち
1900年2月14日ヴァレンタインデイ、寄宿女学校のピクニックで起こった女生徒たちの失踪事件に纏わる物語です。時代背景は英国ヴィクトリア朝末期、翌1901年オーストラリア🇦🇺は、イギリスからの独立しています。
子供から大人へと変わっていく少女たちの持つ不可思議な生態、不安定ゆえに妖しい魅力を放つ一瞬。それは昆虫などに見られるメタモルフォーゼ<変態>に例えられます。栄養摂取に特化して生き残りと成長に最適化された幼生と、生殖機能を備えた成体の間で、形態が大きく変わることです。
オーストラリア🇦🇺🐨🦘が孕んでいる未開の自然の不可解さや謎めいた懐の深さと、少女たちが大人へと成長していく過程の美しく魅惑的なモーメントとが、綴織のように物語を構成しています。そして、ミステリーについては収束されず不明瞭なまま幕を閉じます。結末に投げ出されたような浮遊感と物語からもたらされる曖昧さがシンクロして、夢と現実が混ざり合っていくような余韻が長く響き続けているようです。
ざわめきとか、揺らぎとか
ハンギング・ロックは険しい岩山だ。
この映画を初めて見た時は、ストーリーが謎を呼ぶ割に、理由も結局は不明で、ざわめきばかりが残り、いわゆる安堵感とか安心感といったものを一切感じなかった。ちょっと、突き放されたような感覚だった。
そして、イマジネーション力が問われている感じもした。
しかし、それからかなり経って、深夜の映画番組でこの作品が放送された時、解説の岡部まりさんが「少年が大人になる一瞬をテーマにした作品は比較的あるように思うが、この映画は少女が大人になる時の揺らぎを表現した数少ない作品ではないか」と話しているのを聞いてハッとしたことを覚えている。
岡部まりさんは、ずいぶん昔「探偵ナイトスクープ」で秘書をやっていた方だ。
この原作は、映画のカルト的な人気が高まるとともに実際にあった事件をベースにしたものだとの噂が広がった。
しかし、原作者のジョーン・リンジーが、実は自分の見た夢が元ネタだったと、ずいぶん後になってから明かす。
また、この映画は「ジョンブック/目撃者」で一躍有名になったピーター・ウィアーの初期監督作品として、海外公開から10年以上経ってからシネヴィヴァンという六本木のミニシアターで公開された。
いまの六本木ヒルズのある場所の六本木通り沿いのWAVEというビルの地下にあったシアターだ。
そして、「ジョンブック/目撃者」がヒットしなければ日本公開はなかったとされている。
僕が最初にこの映画に惹かれたのは、村上春樹作品が好きだったことが影響している思う。
村上春樹作品では、よくヒトやモノ、場合によってはゾウまでもが、当然、消失するのだ。
だが、そこには、村上春樹作品の静かに喪失感が進行する様とか、それに向き合おうとする姿勢はなく、代わりに何かがざわつく、居心地の悪い感じがあった。
(以下少々ネタバレ少しあり)
あったのは、
ボッティチェリのヴィーナス似の美少女ミランダを含む4人の失踪と、
僅かだが複数の目撃、
捜索に出たマイクルが意識不明で発見されたこと、
アルバートによるアーマの発見、
1週間を経て発見されたアーマの記憶喪失、
フラストレーションを募らせるアップルヤード校長、
孤児セーラへの虐待、
セーラの自殺、
そして、学校コミュニティのヒステリック化と崩壊だった。
その後、アップルヤード校長もハンギング・ロックで遺体となって発見される。
この作品は、事件の原因も理由も、結局は何も語らない。
サスペンス好きの方でも結末を重視する人にはお勧めできないストーリーかもしれない。
だが、だからこそ、カルト的人気が高まったのかもしれない。
舞台となった1900年頃のオーストラリアは、不況の直後で、白人支配を目指す政府が主に中国人を排斥する白豪主義をベースにした差別を制度化し、内政はイギリスから自治を獲得するが、外交はイギリスの管理下に置かれるという不安定な時代にあった。
だが、こうした時代背景がヒントなのだろうか。
僕は、原作が1960年代に書かれたことが実は重要なのではないかと今は思っている。
アメリカの1960年代は、公民権運動に加えて、女性解放運動が盛んになった時代だ。
きっと、アメリカ女性が社会進出したり自立を模索する様の詳細は、同じ英語圏のオーストラリアにもきっと伝わっていたに違いないのだ。性も男性に従属するのではないとの考え方もあっただろう。
そして、その頃、ジョーン・リンジーは、不安定な時代のオーストラリアに舞台を設定して、少女達と、それを取り巻く社会、少女が大人の女性に変化するひとときの揺らぎや、性への目覚め、ざわめきを暗示する物語を描こうとしたのではないか。
白い衣服はヴァージンを意味しているに違いない。
あっという間に「それを」乗り越えて、皆のそばから遠くに行ってしまう………つまり、大人びてしまうものもいる。
美しいミランダが最初に消えてしまうのにも、常に男たちの好奇の目の中にあるといった示唆的なものを感じる。
「それを」考えることで罪悪感に苛まれるものもいる。
貞操感が第一のものもいる。
厳格な宗教の教えの下では当たり前かもしれない。
経験しても今まで通り、普通にしていられるものもいる。
消えるスカートやコルセットは何を示唆しているのか。
因習や、価値観を縛り付ける何かだろうか。
学校という空間では、影響は瞬く間に広がる。
ヒステリックなまで管理を徹底しようとする社会や大人達。
消えたことに向き合おうとするより、現状の維持を優先したりする。
こうした目覚めは、いつか皆が通る道で、今である必要はないのだと考えているからだろうか。
傍観しているように見える男子。
そして、亡くなった校長も古い因習を表しているのではないか。
ハンギング・ロックは険しい岩山だ。
そして、「ピクニック」と「ハンギング・ロック」という組み合わのタイトルにも意味があったのではないかと考えさせられる。
簡単そうに思えて、実は容易に登ることは出来ない。
ピクニックのような気分ではいられないのだ。
そして、ハンギング・ロックは、性のメタファーではないのか。
興味を持っても、ざわついても、決して容易なテーマではないのだ。
そうであれば、明らかな解決策などあろうはずがない。
僕達は、この作品を通じて、少女の揺らぎやざわめきを隠されたテーマとして見せられたのではないのだろうか。
(※ 余談だが、昔、薬師丸ひろ子さんが「メインテーマ」という南佳孝さん作詞作曲の歌を歌っていたことがあったが、当の南佳孝さんが同じ曲を「スタンダード」という別のタイトルでカバーしていたことを思い出した。若い子にはメイン・テーマでも、大人にはスタンダードなのだそうだ。)
圧倒的な映像と対比の美学
30年ぶりに観た。1900年という時代のオーストラリア、という背景の中で、イギリス文明と開拓半ばのオーストラリアの野性、失踪で永遠の若さを維持する少女と壊れていく学校と老校長、神隠しという幻想と事故という現実等様々な対比が巧妙に盛り込まれている。壊れる時計、食べ物に群がるアリ等の隠喩も観た後で思い出してみると想像が膨らむ。
初めて観た時は実話に基づく映画とされていたが、現段階ではどうやら全くのフィクションということのよう。確かにクレジットにもフィクションだと書かれている。
儚い少女たちと不可思議な謎が幻想的な雰囲気を増す
岩山へピクニックへ出かけた名門女学園の生徒たち。そこで、数人の女生徒が忽然と姿を消す…。
1900年にオーストラリアで実際に起きた事件を映画化した、1975年のオーストラリア映画。
事件の真相を巡って、様々な諸説が挙げられている。
神隠し説、殺人説、事故説、生け贄説、果てはUFO連れ去り説まで。
事件は迷宮入りとなっている為、真実は分からないが、映画は“神隠し説”にスポットを当てたような作風になっている。
それを象徴しているのが、甘美な映像。幻想的な雰囲気を醸し出している。
また、純真無垢な女生徒たちと彼女たちを取り巻く人間模様が何処か不条理なドラマを作り上げている。
少女。
“女の子”とも“女性”とも違う、あどけなさを残しつつも繊細で多感な時期。
少女でいられるのは、女の子が大人の女性へと変わるほんの一時。それこそ神隠しの如く一瞬で消えてしまう。
儚いその存在が、謎の失踪事件を、神秘的にすら感じさせてしまう。
映画は謎に迫る本格ミステリーではない為、それを期待すると肩透かしを食らうかもしれないが、不思議な世界観と語り口には魅了される。
名匠ピーター・ウィアーの出世作。
失踪する少女の一人、レイチェル・ロバーツがハッとするほど綺麗。
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