劇場公開日 1986年8月30日

「クリエイティブスタンス」エイリアン2 津次郎さんの映画レビュー(感想・評価)

4.5クリエイティブスタンス

2020年7月11日
PCから投稿

エイリアン2は二作目のジンクスを覆す傑作でしたが、そのコピーが「今度は戦争だ」でした。一般に、続編は、上回ることを期待されながら、上回ることが難しい挑戦です。しかし、エンターテインメントとして課せられる柳の下の泥鰌でもあります。

よって、「今度は戦争だ」は、物量を増加させざるを得ない二作目以降の宿命を、端的に表わしている、象徴的なコピーと言えます。すなわち、ほとんどの映画の続編たちに「今度は戦争だ」が使えるはずです。アクションだけでなく、オーシャンズやホームアローンでも大丈夫だと思います。

ただアバターのように、もともと物量が多かった映画には「今度は戦争だ」が使えません。またマッドマックスやブレードランナーのように、月日が隔たり過ぎている映画にも使えません。またキングコングや猿の惑星には、続編よりも刷新の意味があるはずです。

昔の安達祐実の映画「家なき子」も同じコピー「今度は戦争だ」だったようですが、テレビから映画への移行として「今度は戦争だ」が使われています。今度には「前回があっての今回」の意味があり、それがPRを成立させています。即ち「今度」が、前作を見ている人を対象にしているのは、言うまでもありません。

染之助染太郎という伝統演芸「太神楽」のコンビがおりました。お二人とも亡くなってしまいましたが、90年代にはしょっちゅうテレビで見かけた人気芸人でした。世代によっては全く説明の必要がありませんが、おめでたい席に必ず「おめでとうございます」と明るく叫びながら登場し、諧謔的な身ぶりで、和傘の上の鞠を回します。

ほとんどそれだけですが、場は確実に盛り上がります。お決まりで「いつもより余計に回しております」と言い、さらに場が盛り上がります。究極の王道芸でした。

映画の二作目以降が「今度は戦争だ」のキャッチコピーで伝えたいのは「前回よりもスゴいから見てね」ということに他なりません。ただ、それが「いつもより余計に回しております」の聞こえを持ってしまうのは、免れないところがあります。

師匠が「いつもより余計に回しております」と言えば必定の笑いにつながったのは、見る側に「余計に回しているから、だからなんなの?」という気持ちがあったからです。いわば無芸が、絶対的な強みでした。すなわち、和傘の上で鞠が回ったからとて、そんな素人芸のようなものを、見せられたからとて、いったい何がスゴいのか──という嘲弄が、笑いにつながっていたのです。

畢竟「今度は戦争だ」を「だからなんなの」と捉えてしまうなら、元も子もないわけです。そしてほとんどのばあい、じっさい元も子もないコピーと言わざるを得ません。
予算も増えより派手により過激に「余計に回」さなければならないのですが「余計に回し」ても、前回を超えられるとは限りません。それを、いちばんよく知っているのは観衆なのです。

現代社会において「今度」が期待よりも脱力を提供していることを、わたしたちは意外によく知っています。前回を知らないばあい、またターミネーターか13金のごとく繰り返しが繁多で、どれに対しての「今度」なのか解らないばあい、また「だからなんなの」と捉えるとき、「今度」は揶揄または自嘲として──しか機能しません。

たとえば政治の世界に置換するなら「今度は昭恵夫人の二万円だ」という感じでも使えます。
かれらが日がな、瑣末時にかかずりあっているおかげで、わたしは瑣末な映画レビューを投稿することにためらいを感じません。
転じて、政府批判をしたいわけではありません。わたしはそんな玉ではありません。永久に蝸牛角上の争いを続けてほしいと本気で願っています。

それほど親しくない相手に「またこんど」と挨拶するときがあります。場合によっては二度と会わない予定の人に対しても「またこんど」を使うときもあります。「今度」には次回を曖昧にする作用があります。おたがいに懲りていないことを「こんど」に託しつつ、もう嫌だなという気持ちで「またこんど」と別れます。これはたんに日本語の不誠実さを表わしているに過ぎず、複雑な心象でもなければ、わび/さびでもありません。

会社に、私より二回り年下で仲のいいアルバイトがいます。ちなみにわたしはほぼ50です。
彼はライアンゴズリングを知っており、ブレードランナー2049を見ていました。それだけでも驚きました。総じて若い人は映画を見ないものですから。
「むかしのブレードランナーは見た?」と聞いたら「え、あったんですか」とのこと。
ですが、2049も「僕にはだめでした」とのことで、過去作の説明も、へえという感じでした。
わたしは得意気に話したことを後悔しました。

わたしは自分がいたずらに年を食っていることを知っています。ブレードランナー、あるいはマッドマックスの前作を知っていたとして、いったいそれがどんな矜持になると言うのでしょう。

新しい世代には、その世代なりのとらえ方があります。今の人には今作こそ原体験であって、過去作を引き合いに語るのは下世話なことです。

「じゃあ今度見ときますよ」とは言ったものの、直感的に「あ、こいつぜったい見ないな」と感じました。「今度」ほど信用ならない未来はありません。

わたしたちがエイリアン2で知った、もっとも大事なことは、洋画が、ジンクスを覆してくるということです。手垢のついた素材を、ブラッシュアップしてくるという底力です。たとえばヒースレジャーのジョーカーを見るまで、いったい誰がアメコミのヒールに魂入れした意匠を見られると、予想したでしょう。

われわれは水戸黄門か大門未知子のごとく、なん度でも同じことを繰り返す「Productive Stance」しか知りませんでした。連続するものに「Creative Stance」があるなんて知らなかったのです。エイリアン2はそのパラダイムシフトの先鋒でした。

コメントする
津次郎