劇場公開日 2022年4月23日

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「核戦争の危機を再び迎えた時代に、前世紀の「警告」をかみしめる。宮崎駿の愛したメカ&アクション!」悪魔の発明 じゃいさんの映画レビュー(感想・評価)

3.0核戦争の危機を再び迎えた時代に、前世紀の「警告」をかみしめる。宮崎駿の愛したメカ&アクション!

2022年5月5日
PCから投稿
鑑賞方法:映画館

ああ、宮崎駿がカレル・ゼマンに影響を受けたって、こういうことだったのね(笑)。
一見して共通性の見てとれるレトロなメカデザインとプロペラ飛行船の幻想、そして崖に張り付くような建築物と、その壁を伝ってゆく垂直方向のアクション。
たしかに、これはまごうことなき宮崎アニメの霊感源のひとつだよなあ。

新宿K’sシネマのカレル・ゼマン特集上映三日目の3本目、累計9本目。
カレル・ゼマンの最も人口に膾炙した代表作であり、ジュール・ヴェルヌのSF原作を、実写とアニメーションの融合という独特の形式で映像化している。
「実写+アニメーション」といえば、ラリー・ハリーハウゼンのストップモーション・アニメが名高いが、本作の場合、「銅版画」の絵画世界を実写の「書き割り」に援用し、「あたかも登場人物が銅版画の世界のなかにいる」かのように描くという、ちょっと他では類を見ない手法をとっている。

とにかく、そのビジュアル・インパクトは絶大で、誰しも一見したら二度と忘れられないだろう。
しょうじきお話ベースでいえば、ゼマン作品だと『クラバート』や『シンドバッドの冒険』のほうが僕は面白いと思うし、ゼマンの特撮実写に限っても、たぶん『狂気のクロニクル』のほうがふつうに楽める映画のはずなのだが、どの作品も「絵柄の衝撃性」において、「銅版画+実写」という取り合わせの生み出す破壊力には、たぶんかなわない。

そもそも、ゼマンは「書物」と「映画」の「あわい」を探査するのが身上の映像詩人だ。
「テクスト+二次元の絵」で語られた過去の物語を、擬似的三次元性と時間性によって特徴づけられる「映像」へと置き換える作業に、きわめて意識的だった監督だと言い換えてもいい。
彼は、「テキストのかたちで記された」「過去の出来事や物語」を、その「余韻」を色濃く残したうえで「映像の形で再話する」という体の「語り口」をこよなく愛した。
『前世紀探検』や『狂気のクロニクル』には実際の「書物」が映画内に登場するし、『ほら男爵の冒険』のオープニングも、本をめくる形でスタートする。『彗星に乗って』では、タイトル・クレジットで観客を「絵葉書のなかの世界」に導き、作品自体でも「実写」と「絵葉書」の融合実験がおこなわれている。『シンドバッドの冒険』『クラバート』『ホンジークとマジェンカ』では、作中に元ネタの「本」こそ登場しないものの、「過去形のナレーションによる異化効果」と「絵本のようなキャラデザと切り絵アニメーション」という手法によって、これが「本」のなかで語り継がれてきた物語の「再話」であることが強調されている。
そんなカレル・ゼマンにとって、ジュール・ヴェルヌの「レトロなSF」を映像化するにあたって、「銅版画」という、ブックテクストと切っても切り離せないノスタルジックな絵画表現を援用するのは、じつに平仄の合った手法だったにちがいない。
『悪魔の発明』のなかでは、「文字テクスト&挿絵」によるブックカルチャーと、「実写映画」というシネマカルチャーが、同居し、併存し、融合し、アウフヘーベンされている。同時に、「レトロ+SF」という過去と未来のアウフヘーベンも、この「手法」によって同時に達成されていることも見逃せない。

映画としては、『海底二万哩』的な要素も大いに取り入れられ、海で始まった冒険が地上に持ち越され、やがて海へと還るという、ゼマンお得意の筋立てが現出している。
海中の奇妙な生物をクローズアップする博物学的な興味や、奇怪でレトロなメカや建築物の表現など、監督独特の趣味性が満載だし、この博物学的テイストは、その後シュヴァンクマイエルあたりにもおおいに継承されている感じがする。そして、もちろん宮崎駿にも!
その他、「囚われの姫」のあっけらかんとしたキャラ付けや、終盤とちょっと拍子抜けするようなあっさりした展開、ラストシーンの地平線に消えてくノリあたりはいずれも『狂気のクロニクル』とそっくりで、いかにもゼマンらしい映画だなあと。まあ、登場人物の扱いがコマっぽくてあまり感情移入しがたい点や、語り口が全体にもっさりしていて中盤戦でだいぶとダレるあたりも、この人らしいのだが……。

内容的には、それこそ「今」観るべき映画だ、と言っていいだろう。
禁断の大量破壊兵器としての「新型爆弾」をめぐって、海賊と結託した悪の貴族と「連合軍」が対峙する構図は、まさに現代の縮図――というより、過去から突き付けられた、「今そこにある危機」のおそるべき戯画に他ならない。
19世紀の時点でジュール・ヴェルヌがすでに警告し(1896年)、
第二次世界大戦における現実の原爆投下を経て(1945年)、
カレル・ゼマンが改めて警告した(1959年)「大量殺戮兵器」の恐怖。
人間は、あまりにも愚かで、時を経た今、ふたたびまた同じ轍を踏もうとしている。

この物語において、「新型爆弾」の招く世界滅亡につながる危機は、たった二人の人間の英雄的行為によって食い止められることになるわけだが、はたして「現実」のわれわれにさし迫っている危機は、これからどんな経緯をたどることになるのか。

いまは新宿の片隅で、世界に対してあまりにも無力な自分と向き合いながら、カレル・ゼマンによる過去からの警告を、ただかみしめて肝に銘じることしかできないのだけれど。

(追記)
なんか、僕の観た回、異常に音が大きかった気がしたんですが、
僕だけなのかなあ。途中で多少馴染んだけど、最初どうしてくれようかと……(笑)。

じゃい