劇場公開日 2023年4月29日

「B級の犯罪小説はいつの間に」はなればなれに(1964) abokado0329さんの映画レビュー(感想・評価)

4.0B級の犯罪小説はいつの間に

2024年4月19日
PCから投稿
鑑賞方法:その他

ジャン=リュック・ゴダール監督作品。

「B級の犯罪小説」みたいな映画なのだが、面白い。
映画でどこまで遊べるかを試しているかのよう。

本作は、アルチュールとフランツという二人の小悪党が、英会話教室で出会ったオディールの叔母の家へ強盗に行く話である。

だが肝心の強盗のシークエンスは、終盤の20分ぐらいに雑に行われる。そこにハラハラもなければドキドキもない。むしろ3人が英会話教室をサボって街をふらつく様子が中心に描かれている。

取り留めのない物語である。しかし本作では映画的手法で多くの遊びが仕掛けられている。

まずナレーションである。ナレーションは物語の場面や登場人物の心情説明で用いられる。本作でもそのように使われてはいるのだが、さらに館内に遅れて入場した観客のために物語の要約が語られたり、心情説明を括弧を開くと表現し、ナレーションとは何かというナレーションが行われる。つまり観客に直接語りかけることもされよりメタ的な語りが展開される。

そのことはナレーションとは何かという問いにも向かう。それがアルチュールとオディールがフランツを出し抜いて地下鉄に乗るシーンで象徴的である。このシーンで、オディールは地下鉄の乗客の顔について物悲しいと語る。しかし後に続くナレーションで、乗客の前後の物語が補完される時、私たち鑑賞者の目には違った表情としてその顔が現れてくるのである。このことからナレーション=言語的メッセージが映像イメージの解釈を促すことがよく分かる。つまりナレーションは映像イメージを説明する機能だけでなく、むしろ説明によって映像イメージを生成するのである。

次にイメージの反復である。オディールは英会話教室で詩人エリエットの言葉を引用しながら重要なことを述べる。「すべて新しいことは無意識のうちに伝統的な事柄に基づく」と。つまりそれは英語の先生が言うように、「古典的=現代的」ということである。

本作の序盤にフランツがアルチュールをビリー・ザ・キッドに見立て射殺するくだりがある。このくだりはアルチュールの倒れ方の下手さからつまらない余興だと解釈される。しかしこれは、アルチュールが強盗に入り叔母の知人に射殺される運命を示してもいるのである。このように物語の伏線の機能も果たしているのだが、さらに深い意義がある。そもそもビリー・ザ・キッドとは誰か。調べてみるとアメリカ合衆国・西部開拓時代の特に知られたアウトロー、強盗であり、「盛んに西部劇の題材となり、1つの時代を象徴するアイコンとして、アメリカでは現代でも非常に人気の高い人物である」(wikiより)。つまりここでビリー・ザ・キッドを取り上げるとは、西部劇のイメージを用いているということでもある。西部劇とは『駅馬車』に代表されるようにアメリカ・ハリウッド映画を興隆させた一大ジャンルであり、古典である。このように西部劇=古典的なイメージと、本作のクライム・サスペンス=現代的なイメージを等式的に反復させながら物語を展開させているのである。しかも本作のように新しいと観客が思うものも「無意識のうちに伝統的な事柄に基づ」いていることを私たちに教えているのである。
また本作をクライム・サスペンスというジャンルに収めながら、あえて犯罪の場面を描かず物語を脱臼させることは、古典的なクライム・サスペンスを現代的なクライム・サスペンスに等式化させてもいるのである。

他にも英会話教室にいる美しい女性マルチーヌは、顔のクロースアップがされたり、再びカフェに登場したりと物語に意味ありげな人物である。しかし何も起こらない。彼女は物語の筋には全く関係ないのである。
そしてセリフを重複させる切り替えしショット、音声がオディールのセリフによってかき消されること、突然踊り出すダンスシーン、アルチュールはフランツを「誰かが撃ってきても映画のように奴が俺の身代わりだ」と言っているのにそのようにならないこと、挙げたらきりがない遊びが散りばめられている。

このように現代からみれば古典的と呼ばれる本作も、全く現代的であり面白い。恐るべきジャン=リュック・ゴダール。彼と戯れる映画言語が求められている。

田沼(+−×÷)