アメリカン・サイコのレビュー・感想・評価
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中身も外見も消え失せた時に浮かび上がる“空虚な顔”
イカのラビオリ、チーズパイ、ルッコラのサラダ、メカジキのミートローフ、ラズベリーソースを添えたウズラのロースト、ウサギ肉のグリル――オープニングで映し出されていくのは、“美”と“味”の両方が追求された、獣や魚、植物たちの殺害現場。スノッブな人々の欲を満たすべく、シェフは“遺体”を華麗に処理していく。そんなスマートさと対照的なものが、主人公・パトリック・ベイトマンによるアッパーな殺人だ。
ベイトマンは、81丁目ウエストサイドに住む27歳のエリートサラリーマン(=ヤッピー)。自分のケアも、決して欠かさない(ボディスクラブ、ジェル、ノンアルコールのローション、ミントのパック――朝の身支度の流れが最高のテンポ感)。完璧な肉体を高級スーツで包み、一流の同僚たちと最高のレストランで会話(中身は空虚で下世話)。仕事は、誰かと会食をしていれば万事OK。でも、名刺の質だけは、誰にも負けたくはない。そんな彼には“快楽殺人者”としての裏の顔があった、というのが本筋だ。
顔立ち、身だしなみ、学歴――全て非の打ち所がないライバルの出現から、ベイトマンの殺人行為は加速していくのだが、どれもこれもずさんものばかり。殺した遺体を詰めた袋から血が滴り、通りすがりの者を躊躇なく殺害。警察に発砲、遺体は隠れ家へ隠してしまう……まるで現実味がない。印象的だったのは、遺体を運んでいる時、知り合いに遭遇するパートでの「パトリックか?」「いいや“俺”じゃない。間違いだ」というセリフ。ジャンルとしてはサイコホラーに属しているが、本作はブラックコメディの側面の方が強い。
クライマックスに訪れるのは、解釈の分岐だ。真実と虚構、どちらをとっても良いように描かれているので、他人との議論が捗るはず。こんなことも考えられる。ベイトマンは、生気のない目でエリート社会の鉄則「中身なんて関係ない(外見だけでいい)」と語っている。ベイトマンの殺人行為も、中身(=理由)はなく、外見(=結果)だけだった。しかし、その外見すらも消え失せたことで、全ての“意味”を失った……「何もない」という断定は、彼にとって最も耐え難いものだろう。ラストの“顔”は、あまり空虚だった。
余談:なんといっても、クリスチャン・ベール!濃ゆい芝居がしっかりと堪能できます。“鏡の中の自分を愛でるSEX”はかなり笑えますし、「悪魔のいけにえ」の亜種ともいえる“血まみれ全裸チェーンソー男(スニーカーを履いているのがミソ)”はやっぱり衝撃的。
どう捉えるか
ずっと気になっていたがなかなか見れなかったやつ。
クリスチャン・ベイルがかっこいい。
顔を身体も。あのH中にカッコつけているシーン面白かった。
スーツの上にレインコート着てチェンソー持っている、あの有名なシーンが出た時はテンション上がった。
結構派手な殺人シーンが多く、ちょっとコメディチックだった。
特にチェンソー落として殺すところとか。
ラスト自分は全部主人公の妄想オチなのかと思ったが、ここのコメントを見て、周囲の「究極の無関心」だったと理解した。
どちらなのかは明確に描写されている訳では無いが、「究極の無関心」のほうが腑に落ちるし、面白みが増す。
別のマンションに死体隠してたのに無くなっていたシーンは、マンション業者が不利になりたくなかったからなのか。そう思うとあのシーン面白い!
ラストの解釈によって面白度が変わる。
結構楽しめた映画だった。
ヤッピーの百鬼夜行wをカリカチュアにしてコミカルに風刺
酷いと聞いていた吹替版を観たら、ホントに吹替が酷かったので驚いたw ま、これしか観られなかったのでしょうがない。
それはさておき、本作はうろ覚えだがアルトマン『ザ・プレイヤー』を連想させる。
第一に、若いが高収入の都会的専門職業人ヤッピーが好き勝手し放題に大衆を見下し、遊びまくって物欲、金銭欲、名誉欲、性欲等、欲望の限りを尽くすことに対する批判。
第二に、彼らが欲望の果てに犯罪に巻き込まれ、そこから逃げようとする姿。
片やハリウッド、片やウオール街という違いはあるものの、この辺りが共通の発想のように思えた。
奇しくもというべきか、案の定というべきか、原作の発表時期は『ザ・プレイヤー』が1988年、『アメリカン・サイコ』が1991年と近く、ともに1980年代に登場したヤッピーたちの生態とその批判がテーマとなっているのは間違いない。映画は前者1992年だが、後者の映画化である本作は2000年発表と若干間が空くこともあってか、彼らがマンガのようにカリカチュア化され、ほとんどコメディになっている。
特に笑えるのが、冒頭に紹介される主人公の朝のルーティーン。腹筋1,000回にシャワーを浴びる際のソープ、顔の角質を取るソープ、保湿用の顔パック、ローション等々には腹の皮がよじれるw
また、オシャレ名刺競争も面白い。朝からレストランで人脈や雑学を自慢し合った挙句、最後は名刺のような最もどうでもいい小物を持ち出して、素材の質の良し悪し、色調、フォントの趣味、デザイン等々に一喜一憂するのが滑稽極まりない。
さらに音楽の話も間抜けている。セックスする前にヒューイ・ルイス&ザ・ニュースやジェネシス、フィル・コリンズ、ホイットニー・ヒューストン等々、誰でも知っているヒット音楽について、評論家受け売りの話を延々と講釈し、ベッドでは鏡に写った自分の姿に陶酔しながら行為するので、怒った女性は無言で睨みつけて帰っていくww バカ丸出しである。
ちなみに音楽担当は元ヴェルヴェット・アンダーグラウンドのジョン・ケイルで、恐らくスコアを書いているのだろう。ここで取り上げられている曲に彼の意見が反映されているか、ちょっと興味のあるところだ。
さて、このお間抜けヤッピーが突然、殺人を始めるのでビックリさせられるのだが、そこには何も理由がない。強いて言えば欲望の追求の果てにたどり着いた人間への無関心、憎悪と、その時々の気分が動機らしい。
しかし、彼が同僚まで殺したことから探偵が捜査に乗り出し、彼も慌て始める。
映画は主人公が実は何十人も虐殺しまくってきており、その死体をマンションの1室に保存している精神異常者、まさに「サイコ」なのだと描いていく。殺し方もマサカリ、電動ノコギリ、美容機器等々、バリエーションに富んでいるようだw
ところが最後になると、主人公は実は誰も殺していない、ただの妄想だったという話が描かれていき、観客はどちらが正しいのか皆目わからないまま終わるのである。
レビューを読むと、殺人は事実なのか妄想なのかに焦点を当てているものが多いが、映画の重箱の隅を突いてどっちなのか論じてもあまり意味がないような気がする。
要は、欲望追求の果てにたどり着いた価値観の倒錯、人間への無関心と社会性の喪失、人間憎悪と殺人妄想――ひと言で言えば人間性の喪失がヤッピー批判の着地点で、本作の主要部分なのである。そんな主人公をどんな酷い目に遭わせるか、殺人鬼にしてしまうか、精神異常者で勘弁してやるかは、監督の趣味の問題だろうw
本作はサイコホラーなどと分類されているが、小生にはコメディにしか見えなかった。怖いとしたらむしろ原作者や監督の徹底的な嫉妬と侮蔑の視線の方である。
こうしたヤッピーたちの百鬼夜行は2008年のリーマン・ショックまで続いていく。米国ではその後、中産階級の転落が著しいと聞くが、最近はヤッピー批判より『ジョーカー』『ノマドランド』等、社会の二極分化に対する批判に移行しつつあるのではなかろうか。
裁かれない辛さ、それはSNS時代にも通ずる
裁かれない辛さ、それはSNS時代にも通ずる
00年代初期特有のまだ古き良きアメリカ臭と言いますか、我々ニッポン人が憧れていた頃のアメリカの感じがプンプンに漂うこの頃特有のアメリカ臭のする作風にまずはノスタルジーを感じる事でしょう。
そして本編。正直ミソ気味の僕でも引くぐらいの超男尊っぷりを披露してくんですが、まあそれは良いとして何だか宙に浮いたようなセリフがずっと続くんです。
いくら昔の映画とはいえ流石にセリフ臭い箸にも棒にもかからないような ”セリフらしいセリフ” が紡がれているだけのようなシーンの連続。この違和感は何なのか?気の所為では・・・・無かった。
そう、最後の最後の大どんでん返しとして、実は今までの行為は全部実在しない、妄想だったのではないか?という事が示されるのです!!何かトム・クルーズのバニラ・スカイだとかゲームのEver17みたいにこの頃は流行りだったんですかね(ネタバレ気味に)。
でも面白い事に、『『やっぱり現実だったんじゃないか』』ってそんな感じで終わるんです。そして最後までそこは明確にされないまま、この物語は終わります。
一体この狂気の男の私生活を見せられ続けた二時間は何だったのか?この男は何故罰を受けていないのか?疑問が疑問を呼ぶので鑑賞後が非常に楽しい作品でした。
結論から言いますと、制作陣曰く事実だったそうです。じゃあ何故彼は無事なのか?それは当時のアメリカの特権階級を皮肉っているからなんだとか。序盤で主人公がとある人物と勘違いされてるけどそのままにしてる、みたいな件が有りましたがアレがまさに本作の本質のソレで、みんな他人に関心が無いのです。
だから殺人を真正面を向いて告白された弁護士も取り合わない、関わらない方向性に舵を切っていましたし、同僚達もジョークの延長線か事実だとしても聞かなかった事にしてるのか取り合わない。
普段から関わり合っているのに、本質的にはどうでも良いんです。でもこれって今の社会では普通じゃないでしょうか?????
思えば自分も人の顔をちゃんと覚えていなかったり、名前は何だったっけ?なんて日常茶飯事です。会社の同僚で名前は知らないけど一部分の作業でずっと付き合いが長い、みたいな人くらい居るのではないでしょうか?現代社会ではむしろこのアメリカン・サイコの社会が普遍的になっているとも言えるのです。もしかすると公開当時には既にそうだったのではないでしょうか。
人々は充実し、恵まれていくと共に人の助けを必要としなくなるが為、他人に本当の関心を寄せなくなる。だから表面上の関わりしか無いのが、まさに現代社会にグッサリと刺さっている内容だったとは言えるのでは無いでしょうか。
話題を戻しまして、本作ややこしいのがやっぱり非現実も混ざっているという点です。チェーンソウが命中したり警察官と撃ち合って勝利を収めてるようなシーンはどうやら妄想らしいのです。まあ弾倉に何発装填されてるんだ?って不思議なシーンなのでそこはジョーカーよろしく古くからの手法なんだなあと学べたり。
主人公の彼女に殺人を打ち明けても取り合ってくれなかったのも恐らく殺人関係についての言及は現実ではしていなかったというところでしょう。流石に彼女がそこをスルーするのはありえないはず。。。。
つまり、本作の結論として見えてくるのは自らの特権階級によって手に入れた富や名声と引き換えに、人々からの無関心その終わらない地獄。主人公が刺激を求めていたのも元々はそういった生活に生き甲斐を感じなかったからで、一方で裁かれる事も望んでいた。
そこに救いが有ると信じて、ある種今の現実が一種の地獄だった彼なのですが、最後の最後でそこらも抜け出せない事を悟るのです。
普通なら悪いことをすれば罪に問われますが、現代社会でもSNSなんかで陰口を叩いたり誹謗中傷をしたり、バイトテロなんて可愛いもんでセカンドレイプや詐欺と千差万別ですよね。
別にそこまで露骨な犯罪ではなくとも、例えば女性なら性を売って金儲けをしている方が多いはずです。そこに少しでも罪悪感を感じていて、でも裁かれる事は無い、もしくは裁かれなかった。。。。。
そのときに感じる虚無感や終わらない”何か”を、明確な区切り無く日常と共に狂気が続いていく今のSNSネット社会全盛の空気を、20年以上も前に描いていたのが、このアメリカン・サイコの本質だったと言えるのかもしれません・・・・・・・・。
共感してしまった
人は誰しもが殺人を犯しているのでは?
頭の中でなら。毎日のようにそれは起こる。
思い通りにならない店員に、ライバルの同僚に。それらの不満は視界に映る不潔な路上生活者、娼婦、野良猫にも向けられる。
私の解釈では、彼の吐く汚い言葉は、殆どが妄想である。よく漫画などで妄想カットが挟まれ、後に主人公が我に返り実際は何も起きてないという演出があるが、この主人公は我に返らない。
そのため、どれだけ暴言を吐いても相手には聞こえてないか無視されているように見える。心の声だからだ。
本人も述懐しているように、殺人がアイデンティティになってしまっているのだ。親のレールで成功しただけの中身のない退屈な自分の。
名前よりも名刺が大事で、中身よりも見た目が大事。他人の名前で呼ばれても動じない、自らも他人の名前を騙る。自分の名前で呼ばれたときは「人違いです」病的に自分がないのだ。
婚約者は言う「お父様が社長で働かなくても暮らせるのになぜ仕事するの?」彼は答える「仲間になりたいからだ」ある種のカテゴリにはまった生活様式や服装をすることで辛うじて人としての輪郭を保っている。
冒頭で完璧なスキンケアを施しながら自分語りが入るが、そこで彼は透明なパックをする。そのパックが色つきでなく透明なのが1つの暗喩に見える。
マスクを被っているが、ひと皮向いても、同じ。
途中まで騙されかけたが、彼はサイコパスとは違うと思う。
幼い頃から周りが期待する型に添った自分を演じるうちに、本当の自分が分からなくなってしまったのだ。育む機会がなかったというほうが正しいかもしれない。
だから自分が『ほんとうに』好きなことや楽しいことが分からない。人を愛することもできない。人より秀でていることや、自分が不快にならないことだけが重要。完璧なボディメンテナンスにそれが現れている。
男が…という人もいるけど、女にもこういう人はいる。
自分にしか関心がなく、セックスの最中も気になるのは自分のボディーライン。噛み合わない会話。ステータス自慢。
音楽は聴くけれど、感想は何かの丸暗記のようで、一方的に語るだけで人と共有できず、好みも支離滅裂。ただ雑音を遠ざけるだけの装置のようにも映る。一方で必死に人間的な感受性に触れたがっているようにも見える。
安定剤漬けのセックスフレンドは、いかにも空虚さを抱えたニューヨークの上流階級の娘で、どこかしら彼と波長が合っている。
彼はすぐ嘘をつく。しかもすぐにバレる嘘だ。虚言癖のように。後半、自分でも何が嘘か本当か分からなくなっている様子が、刑事への受け答えに現れる。
仕事の書き込みが皆無の、女の名前と暴力的お絵描きまみれの手帳を発見した秘書は、恐怖よりも哀しみを浮かべている。子供が病んでいるのを発見した親のように。
彼は電話やエクササイズをしながらビデオを流しているが、1つは3PのAV、2つ目はチェーンソーを振り回す男のホラー。私はこれがヒントだと思う。
創作(妄想)と現実の区別がなくなっていく。
この映画はその境界線が分からないように出来ている。
もちろん実際にやっている可能性もゼロではない。
でも重要なのは、彼や我々が「本当の自分」などというとき、「本当」なんて存在するのか?そんなものは最初からどこにもないのではないか。薄っぺらい現実に嫌気が差した時、本当を作り上げ、現実を偽りにするのかもしれない。
いくらなんでも。
いくらHBS出身で親の経営する会社だとしてもちゃんとした金融機関で27歳で個室と秘書を持てるか?主人公も同僚も全く仕事をせず飲んだくれてばかり。何人殺しても警察は動かない。全てあり得ない。リアリティがなさすぎ、と思ったら全てが現実ではなかった?というオチ。これはないだろう、、、
考察が楽しめる映画
クリスチャン・ベール。
なんですか?この男から見てもセクシーな俳優さんは?シャワー浴びるシーンなんか、かっこいいし、いちいち真似したくなっちゃうじゃぁ、ありませんか。エンディングは、あれっ!ここまでの流れは全て主人公の妄想なの??となるが、実は世間は他人に対してそれほど関心を持っていないということを指摘した風刺映画なんじゃないかな。SNS全盛の今、スマホすらない20年以上も前に未来を予言しているようで、考察も楽しめるいい映画だった。
80年代、アメリカのプレッピー? ヤンエグ世代。 名刺のデザインや...
80年代、アメリカのプレッピー?
ヤンエグ世代。
名刺のデザインや人気レストランの予約が取れるかでマウントしあい、恋愛も友人付き合いも表面だけの空っぽ。
風刺が効いて真剣にマウントする姿は滑稽で笑えた。
裸でチェーンソー振り回す姿も
怖いんだけれどどこか笑える。。。
ホラー、スリラーとは一線を変えたムービー
あなたはどっちがお好み?
パトリック・ベイトマン(クリスチャン・ベイル)はウォール街で、働くエリート。高収入でイケメン、高級アパートに住む彼は連続殺人鬼のサイコ野郎だった!!
っていうサイコスリラーと言うよりはブラックコメディでしたねー。
結構グロいのかなと思いきや、直接的なシーンはあんまりなく、わりと観やすかったです。
なんせ、クリスチャンベイルのぶっ飛んだ演技が最高でした!
主人公のベイトマンは見た目は完璧だけど、全然満たされてなくて、常にピリピリしてる。
エリート仲間との間で繰り広げられる名刺マウンティングは本当に意味不明だし、高級レストランの予約が取れないくらいで怒るなよとも思うけど、見栄の張り合いで見た目重視の人エリートたちにとっては最重要事項らしい。
自分より先に高級レストラン予約するやつ、自分よりセンスのいい名刺作ってくるやつは、そっこーでベイトマンの餌食になるのですが、恐ろしいシーンのはずなのになんか笑える。
くだらないことに一生懸命になって、イライラピリピリしているベイトマンはとても滑稽だけど、こう言うことって日常生活の中にわりとあったりする。
他人から見たらどうでもいいことでも、自分にとっては重要なことってある。
それが、傷つけられたり、バカにされたりするとやっぱり嫌だなと思う。
そんな気持ちをかなり誇張して描いてるだけなのかも。
ラストの意味はどっちの解釈もできる。
本当は全てベイトマンの妄想でしたor本当に殺人鬼だったけど、周りの人の無関心によりベイトマンの罪は無視されるの2パターン。
私的には後者のラストに一票。
自分の商売のために殺人現場をリフォームして素知らぬ顔でお客様に売りに出す不動産業者。
友人の名前もろくに覚えないエリート仲間や弁護士。
ベイトマンの必死の叫び声も他人の無関心の前にはなすすべも無く、殺人の告白すら相手にされない。
文書で読むと狂気に満ちたどうしようもない世の中で、なんか暗い作品のように思うけど、あくまでコメディなので、なんか笑えてしまう。
すごく不思議な作品でした。
残酷描写に多少の免疫があれば、楽しめる作品です。
ひとり残らず
最後、存在を無視され、それでもなお「オレの苦しみをひとり残らず味あわせてやりたい」と、周囲を見渡す主人公。
ひとり残らず殺して、地球上にひとりぼっちになりそう。
ポール殺しを追ってた刑事が、主人公の存在を認めてくれる人物なのかも。
その刑事ですら、「ポールとロンドンで食事した」という証言のせいで離れていくんでしょうけど。
そう考えると、秘書と、別れたくないと泣く女の子の存在が中途半端だな。
それにしても、映画前半では、名刺ですら見栄を張り豪勢な暮らしを見せつけるバブル男たちの薄っぺらい姿を、笑いながらもどこか羨ましく見てしまったが、ラストシーンでは、よりくだらない井戸端会議のオバちゃんぐらいに見えてしまう。
主人公が弁護士に存在の希薄なツマラナイ人間と言われた瞬間に、映画の観客の目まで変えさせる演出いいね、と思った。
序盤、名前沢山出てきてついていけないかも??って思ったけど、前半に人物・レストラン・ブランドの名前をこれでもかというぐらい出すことで、ラストシーンがより効いてるんだな。
勉強になりました。
流行り、もてはやされるもの、仲間、会社…共同幻想で構築されるものは、いきつくところはひとりぼっちなんですかね。
わたし個人は友だちがめっちゃ少なくダンナぐらいしか心許せる人いないから、そんな関係でも羨ましいと思ったり。
「この後も捕まらないのか、やっぱり逮捕されるのか」までは描かないクールな映画。
意外と(失礼!)面白かったアタリ映画でした★
ポール・アレンを殺してしまったパトリックは、失踪という工作をほど...
ポール・アレンを殺してしまったパトリックは、失踪という工作をほどこし犯罪を隠そうとしたが、ある日探偵(デフォー)の訪問を受ける。常に冷静さを保ち、自宅ではアダルト・ビデオを見ながら腹筋を繰り返すが、誰かを殺したくてしょうがない。そして娼婦を拾う。
婚約者イヴリン(リース・ウィザースプーン)もいるが、愛人もいる。覚えきれない固有名詞が飛び交い、ハイソな仲間とは名刺の品評会。ここでは笑ってしまった。ジェネシス論やヒューイ・ルイス、ホイットニー・ヒューストン論も・・・
結局、彼は自分よりもいい名刺を作ったことに腹を立てる。殺人を思いとどまったように見せかけて、死体は冷蔵庫にぎっしりつまっていた事実。心理的な面白さを追及はせず、どきりとするシーンや、世間の目。金持ちは犯罪など冒さないという偏見にも警鐘を与えていたのかもしれない。
しかし、緊迫感もなく、平坦なシーンばかり。一番盛りあがるのは、素っ裸でチェーンソーを持って娼婦を追い回すクリスチャン・ベイルの姿だろう。ジェイソンの亜流かと思ってしまった。
無になる辛さ
正直途中までは少しチープというか、
あんまり面白くないなと感じていました。
完璧主義で誰よりも勝っていたいという気持ちが強い主人公がなりふり構わず殺人を犯してるだけじゃん!と。
このまま、あからさまに人を殺しまくってくだけで、
どっかのタイミングで足がついて逮捕されちゃう映画なのかなー、なんて思いながら鑑賞していました。
そんな単純なものでは終わらず
最後の主人公の語りは
すごく哲学的で新しい感覚を覚えました。
人は誰しも『決してやってはいけないこと』があって、
それを自覚したうえでやってみると意外とスッキリしちゃったりするもんだと思います。
主人公は最上級にやってはいけない
殺人を犯すことで今までの心の膿をだしていた。
そんな部分でも本当の自分をさらけだそうと最後には叫んでみたものの
結局もみ消されたり、聞き入れてもらえなかったり…
懺悔もできず少しの浄化もされず…
殺人をしても咎められないのなら
主人公にとっての『やってはいけないこと』にはならないですよね。
それがわかって主人公は無になってしまった。
これでまた、同じような身分、身なりの中身のない人間たちに完璧な自分を見せていかなければならない。
『やってはいけない』ことがないって辛いことだと思います。
完璧主義も程々に。。。
衝撃的な内容でした。
笑えます!が、しかし…。
この映画では、80年代アメリカの、リッチで能天気でプラスティックな「頽廃」が描かれます。確かに、「資本主義」に踊らされ、物欲・名誉欲にかられ、日々「見栄のための消費」に明け暮れる登場人物たちの有様は、滑稽ですらあります。
でも、そこから「物質主義・拝金主義・商業主義は良くない!」というだけでは、ちょっと物足りない気がします。実際、以上のフレーズは、劇中、主人公パトリック・ベイトマン自身の口からも語られています。
パトリック・ベイトマンは一流大学卒の、ハンサムでリッチな「ヤンエグ(死語?)」です。でも実は、殺人の衝動を抱えている「ヤバいヤツ(本来の意味で)」で、実際、自分の欲望・衝動の赴くまま何人かの命を奪っていきます。
そんなベイトマンを取り囲むヤンエグたちは、互いに他愛のない話しかしません。流行りのレストラン、新調した名刺、イケてるクラブ…。その会話の内容には「人格的な関わり」がなく、お互いがお互いにとって「代替可能」な存在です。まるで、自分たちの関係が商品抜きでは語り得ないものであるかのように…。
そんななか、深夜街中で人をあやめ、それを目撃されてしまったベイトマンは警察に追われます。ようやく逃げ込んだ自分のオフィスでベイトマンは、知り合いの弁護士に電話をしますが、相手が留守だったため、留守電にメッセージを残します。いましがた人を殺したこと、そしてこれまでも多くの人を殺してきたこと…電話で自分の犯した罪を「告白」するその姿は、まるで迷える子羊の懺悔のようです。
にも関わらず、翌朝になると、ベイトマンの告白は弁護士に単なるジョークと受け取られてしまいます。また、別の事件に関連して崩れかけていたアリバイも、周囲の人間がベイトマンを「ベイトマンその人」として認識しておらず、また被害者(これもヤンエグ)も被害者その人として認識されていないなか、ベイトマンは一連の事件の犯人とは目されなくなってしまいます。つまりベイトマンは、周囲にとって「透明な存在」で、結果的に、その罪に応じた罰さえ与えてもらえなくなるわけです。更に言えば、ベイトマンだけでなく、劇中の人物全員が、お互いにお互いのことを十分には認識しておらず、互いが互いにとって「透明な存在」なのです。
はたして、パトリック・ベイトマンとは何者なのか?「人生に意味を見出だせない人間」「人生に飽きている人間」「自ら進んで社会の外側に身を置いている人間」…様々な見方があると思いますが、多くの人間が無自覚に物象化した社会を生きているなか、ベイトマンだけが「何かがおかしい…」と感じているのではないでしょうか?さらには、ベイトマンの内面には、他の人物は自覚されていない、ある種悲痛な「叫び」さえあるように思われます。
この映画を見て、パトリック・ベイトマンという人間について全く理解が出来ないという人は「健康」だと思います。でも、現代社会を生きている以上、ベイトマンが抱えている出口のない「もがき」の一辺は、我々も共通に抱えているのではないでしょうか?だとするなら、この映画を単純に拒否してしまうことは、現代人として道徳的に白痴であるとの謗りを免れないでしょう。
それにしても、名刺のシーンの「逆ギレ」は、やっぱり笑えます。
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