【佐々木俊尚コラム:ドキュメンタリーの時代】「華氏119」

2018年11月5日 14:00


「華氏119」の一場面
「華氏119」の一場面

[映画.com ニュース] 激しい怒りとアジテーションに満ちた作品で、マイケル・ムーアらしさが全編に溢れている。タイトルはムーア自身の過去作「華氏911」のもじりで、トランプが大統領選挙に勝った2016年11月9日を指している。

本作がなぜこれほど怒りに満ちているのか。それが「トランプごときがアメリカ大統領になるなんて!」という素朴な脊髄反射ではないことは、ムーアの出自が示している。

ムーアの出身は、ミシガン州フリント。ここはかつて自動車産業で栄えた町で、ムーアの父親も自動車工場に勤めていた。このミシガン州など五大湖の一帯は、自動車を始めとする重工業が発展したエリアだったが、近年の空洞化ですっかり寂れ、ラストベルト(錆びついた地域)というような呼び方もされている。

しかしこのラストベルトは、長年見捨てられてきた。共和党は富裕層の政党となり、一方の民主党もラストベルトの貧困白人層に救いの手を差し伸べることはなかった。これは日本でも見られる現象だが、すべての弱者を包摂すべきリベラルな人たちはLGBTや人種などの「選ばれた」マイノリティにばかり目を向け、貧困に陥ったマジョリティにはなぜか目を向けない。

ムーアは大統領選挙前から、トランプの当選を予測していた。優秀な識者たちがこぞって民主党ヒラリー・クリントンの圧勝を予測している中で、ムーアだけが「トランプが勝つ」と言っていた。なぜか。それは本作の中で明かされている。選挙期間中、ヒラリーはラストベルトにほとんど来なかった。しかしトランプはラストベルトに何度もやってきて、「あなたたちは忘れられている。私があなた方を守る」と演説したからだ。

だからムーアの怒りは、トランプに対してだけでなく、民主党にも向けられている。そして、それはヒラリーだけではない。

本作では衝撃的なエピソードが描かれる。ムーアの出身地であるフリントでは、ミシガン州知事に就任したリック・スナイダー(牛のマークで有名なパソコン会社、ゲートウェイの元会長)の指示で水道が民営化され、新しい水道が引かれる。ところがこの水道水が鉛に汚染されており、住民に健康被害が出ていることが発覚。しかしスナイダー知事は「問題ない」「すでに解決済み」と対応しなかった。

スナイダー知事はトランプが応援していて、ムーアの怒りは当然のようにトランプに向く。しかしそれだけではない。フリントの街にはついに、まるでヒーローか救世主のように当時の大統領オバマがやってくる。街の人々は、ついにオバマが汚染された水道管をやっつけて、再び健康を取り戻してくれるのではないかと期待する。

ところがオバマはそんなことはしてくれなかった。あろうことかフリントの街の演説会場で、水道水を飲むパフォーマンスをやってみせて人々を落胆させるのだ。ムーアの目は映像に映っているオバマの口元を執拗に狙い、オバマがコップの水に口をつけているだけで、実はひとくちも飲んでいないことを暴いてみせるのだ。

トランプの共和党だけでなく、オバマやヒラリーの民主党もまったく信用できない。ムーアはそう怒るのだ。

こういうエピソードが次々に、畳み掛けるように描かれ、崩壊しつつあるアメリカの政治への怒りがぶちまけられていく。それはある意味で爽快なほどであり、ムーアの怒りは既存政治に絶望している観客の心を揺さぶるだろう。

ただし、このほとばしるようなムーアの情念は、現実の社会にとってはかなりの「諸刃の剣」でもあることは考えておきたい。ムーアは戦いを呼びかけ、「立ち上がれ」と訴える。しかし戦いを勝ち取ったことで、果たしてその先にすべての人々が包摂される良い未来がやってくるのか。戦いは、分断をさらに加速させる可能性も秘めていないか。さらに言えば、既存の政治への怒りは新たなポピュリズムへの敷石になってしまうことが多い。

そもそも今の社会の問題を解決するのには、敵と味方に分かれて戦うのではなく、そこに敵味方ではないさまざまなパワーの相互作用が起きていることを認めた上で、その相互作用が社会にうまく作用するような力学を設計していくようなアプローチが求められるようになっている。これは闘争の時代だった20世紀の反省を踏まえた上で、21世紀になって広まってきている考え方だ。

その意味において、ムーアの怒りはあまりにも20世紀的想像力だと思うし、敵味方の闘争という手法を越えられていない。そういう視点から、私としては本作の評価をちょっと留保しておきたいと思う。

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