聖地には蜘蛛が巣を張るのレビュー・感想・評価
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名誉殺人
一族の女性が婚前交渉や不倫をしたり、あるいはレイプなどされるとそれを一族の名誉を汚したとして残虐な方法で殺してしまうという風習がイスラム教圏の国を中心として今でも行われているという。
男は女性に貞淑を求める傾向にある。そのような男の歪んだ願望が高じて自由恋愛などをする女性を否定し、宗教的教えを曲解して結び付けた結果、風習として長きにわたり地域社会で行われてきたのだろう。
本作の娼婦連続殺人もそんな名誉殺人と同じ延長線上にあったものと思われる。なぜなら犯人に対して多くの大衆は共感して賛辞を贈っていたからだ。性に奔放でふしだらな娼婦は殺してもいいんだというように。
人類史上女性は肉体的に男性に劣るという考えから女性に対する差別は古代からあった。それが特に西洋では宗教がはからずも後押しして女性差別が長きにわたり社会に根付いてしまった。
例えばイスラム教には家計は男が支えるものという教えがある。これは単に男女の役割分担を定めたものだが、この教えは家父長制と親和性が高く、女性差別を正当化する口実になってしまった。
女は男に従い、家に収まっていればいい。男の言う通りおとなしくしていろと。このような考えが根付いてしまったがために、女性の生き方や性格まで自分たちの都合のいいように押しつけてそれに反するなら殺してもいいという発想が生まれる契機になってしまったんだろう。
このように差別されてきた女性たちは男性のように自由に職には就けず、貧困の中、身を売るしかほかに方法がなくなる。つらい仕事ゆえドラッグなども手放せない。そんな状況下に女性を追い込んでおきながら、薬まみれの汚らわしい娼婦だと蔑む男たち。
連続殺人についても警察は野放し状態で本気で捜査する気もない。娼婦がいなくなれば町が浄化されて結構なことだと言わんばかりだ。
本来なら女性の地位を向上させて売春せずとも生きられる社会を作ることこそが浄化といえるだろうに。真に浄化すべきはこんな男社会だ。
宗教によって後押しされて長きにわたり社会に根付いてしまった女性差別。犯人は処刑されるもその息子が後を引き継ぐかのようなラストで終わるさまを観て差別の根深さを感じさせられた。
ちなみに夫婦選択的別姓に反対してる人たちは日本の古き伝統たる家父長制を守るべきだと主張してるけど、日本においては江戸時代まで家制度自体はあったが、家父長制のように父権が強いわけではなかったし、夫婦も別姓が当たり前だった。それを明治政府が日本を西洋化するために家父長制を取り入れて夫婦同姓を法制化しただけのことなんだけど。
一筋縄では行かない事件の背景を描く
2000年〜2001年にかけてイランで実際に起きた
「娼婦16人殺害事件」
監督のアリ・アッバシは、イランにいた2000年当時20代の若者で、
実際の事件を見聞きしている。
殺人犯サイードが「娼婦殺しは街の浄化である」
そう言い切るサイードは全く罪悪感を感じていない。
しかも多くの市民がそれを支持する様子を傍観していた。
スウェーデンの大学に進学してそれから20年が経つ。
アッバシ監督は前作の『ボーダー二つの世界』の成功で今作の資金調達に
道筋がつく。
イランでの撮影許可は下りず、ヨレダンで撮影を敢行する。
一見センセーショナルな「娼婦16人殺害事件」
その事件の取材に関心を持ち解決に導く努力をするのが、
女性ジャーナリストのラヒミ。
彼女は囮捜査まで敢行してサィードの検挙に導く。
彼女の徹底的な不信感。
警察を疑い、弁護人を疑い、検事も疑う。
実際に演じたザーラ・アミール・エブラヒミはSNSの
中傷によりイランを捨ててフランスに活動を移した女優である。
その硬い表情に世界への不信感がリアルに浮かぶ。
そして自分の殺人を「街の浄化である」と主張して
「正しいことをやった」と堂々と語る犯人サイード。
聖地アシュハドの街娼は「殺しても構わない有害な存在」
一般市民やサィードの妻、母親などの家族が英雄視される
サィードを認める。
この映画で何より恐ろしかったのは、サイードの息子のアリ。
まだ少年であるアリが幼い妹を実際に被害者に見立てて、
殺人を再現するシーン。
その嬉々とした表情に第二のサィードの狂気を引き継ぐ姿を
見てしまう!!
イランに限らず女性蔑視、女性嫌悪、女性差別は根強く残っている。
狂気に満ちた世界。
冒頭で暗闇に一本のハイウェイが俯瞰で写されて、
聖地マシュハドの全景の夜景が蜘蛛の巣のように開けて行く。
聖地は殉教者も娼婦も殺人者も呑み込んで、
闇に大きく蜘蛛の巣を張る。
イランのシリアルキラーの話
売る側だけを悪し様にゆうなよ。買う側も罰しろよ。
春にみのがしてて、次の機会を待ってた。見られてよかった。
正義とは、社会とは?
まず、文化が違うという事はこれほどまでに通念や考え方が違う事なのかと驚いた。
17人を殺害しながら、本人だけでなく周りもそれを浄化だと言う構図は、外から見れば異常だが、狂気は1人でなければ狂気ではなくなるのだといわんばかりの描写にぞっとする。
サイードは徐々に殺害に快楽を感じているようにも見え、報道されないことに苛立ち自己顕示欲までもをさらけ出していく。
さらに逮捕後、ますます自信を帯びた顔になり、支持者の存在を得て自分の正当性に確信を得ていく様がおぞましく表現されていく。
笑った顔がだんだんと気味が悪くなっていく演技が凄まじい。
娼婦たちを、狂った信念で絞め殺したのがサイードとそれを支持する世論だとすると、サイードを絞め殺したものはなんだったのか。彼らの神とは、どちら側なのか。この社会の法とは?
社会全体が狂っていたとしたら、その犠牲者はどうなるんだろう。どこを正義とするのだろう。
いつでも、人は社会と隣り合わせだ。
そして、ラストシーンは戦慄だった。
黒頭巾ちゃん気をつけて
開幕早々に犯人は面を割っているので、想像していたよりミステリー要素は希薄だった。あとは追う者と追われる者の攻防ということになるが、女ジャーナリストが自らおとりになる展開は「ああ、やっぱりそうなるか」と気が削がれた。どう考えても無謀すぎるし、実際にはありそうにない。わずかのタイミングの差で主人公は確実に殺されている。
世界には法律よりも戒律が優先される国があり、何なら法律=戒律だったりもするのだろう。日本人には戒律というほどのきびしい宗教的な制約はなく、せいぜい二礼二拍手一礼とか。なので、ラスト彼の国でちゃんと判決どおり死刑が執行されたのは意外だったし、見直した。
娼婦殺しと言えば“切り裂きジャック”だが、あちらは未だに犯人も動機も不明のままらしい。ジャック氏にも宗教的動機があったのだろうか(島田荘司がユニークな説を提示していたが)。肌を露出しないヒジャブが義務付けられている国で街娼が立つというのも、混沌の極みだが。
最近妙に凝った邦題をつける例を散見するが、あざとすぎて鼻白む。この映画も「聖なる蜘蛛」か「スパイダー・キラー」でよくないか。
すぐ隣にある現実かもしれない怖さ
実在した連続殺人事件を元にしたストーリーであり、全ての被害者が女性であることから、「殺人の追憶」に通ずる鑑後感。淡々とした犯罪シーンを何度も見せつけられるのが辛かった。正義感に溺れる市井の人の行き過ぎた行動は、すぐそこにある現実。両方の正義があり、殺人犯の妻や子供だけでなく世間の言動など、一方を完全否定できないところが、実に恐ろしかった。本編の中で、「蜘蛛」は犯人の標的となる娼婦たちを指していたが、タイトルに込めた蜘蛛は、犯行のきっかけとなる正義が信仰からくるもであり、その正義感=信仰心に犯人が囚われてしまっているという事も意味しているのではないかと感じた。
また悲しき現実を映画によって突きつけられる
文化的途上国、もしくは女性蔑視国での現実を映画で知るのはいつも悲しいけれど、目を逸らさないでという映画監督たちの訴えをまた目の当たりにすることになった(自分がそういう映画を選んで鑑賞しているのだろうけど)。
主人公の女性の身体を張った奮闘が実ったのを観て安心したのも束の間、最後のシーンで夜行バスで主人公が観る犯人の息子の映像は、彼女が最も恐れていたであろう、こういう世界にありがちな負の連鎖で、そこにこそ監督の掲げるイスラム社会の問題が表されているんだと思った。
いずれにせよ、休みの日の朝に観るには重すぎるテーマだった…
アップリンク吉祥寺は初訪問。清潔で映画のセレクションがとても良い映画館でした。再訪決定。
怒りに震え、ぞっとした
貧困ゆえに身を売る売春婦を、浄化と称して殺害した連続殺人犯サイード・ハナイの実話を元に描かれた作品。
怒りにふるえ、ぞっとした。
この映画の核心は、サイードが捕まった後半からといえる。
そもそも淫らな欲求を満たしているのは男性の方で、女性側ではない。売春婦を堕落した存在で死に値するというのならば、買う男も堕落しているじゃないか。
商売としてセックスが男女対等に成立している場所はあるにはあるし、好んでそれを選ぶ女性は皆無ではないだろうが、売春を生業とする女性はほとんどの場合、生活の術としてそれしか選択肢がないのではいか。
女性の登校を禁止→文盲、知識の低さ→働けない→売春業に身をやつす。
この悪循環を生んでいるのは絶対的男性優位社会であり、ひいては売春婦を生む原因となってるのは男性側にあるといえる。
そのことに何故多くの人が気づかないのか?
いや、気づきたくないのだろう。自分たちは「正しく」権力を振るう側の存在で居続けるために。
恐ろしいのは、犯人が捕まった後。殺人犯を讃える世論。殺害された女性の家族に対する、脅迫。夫は正しいことをしたとのたまう妻。
基本的人権の欠如と、神の名を口にすれば赦されるという構造の社会の精神性の恐ろしさ。
中でも嫌悪を感じたのはハナイの妻を筆頭とした、自分の保身しか考えない女たちである。殺された女性たちにも人生があり、悲しむ存在がいることをつゆとも考えない。彼女たちにとって、殺されたのは生まれつき「売春婦」という生き物であって、唾棄すべき存在。
事情があり一時的に体を売ったのでは、などと同情することすらない。自分の娘も、同じように虐げられる可能性のある社会だとも気づかずに。実際、選択の自由がないことに不自由を感じず、偏見を偏見と思わない保守的な女性たちも、イラン女性の内なる敵なのだろう。
本物のハナイは、こう言ったという。
「彼女らは私にとってゴキブリと同じくらい役に立たなかった」
ふざけるな。命はその人自身の物で、生殺与奪権など誰にもない。
以前別の機会で知ったが、ヒジャブの起源は不明とのこと。日除け、民族衣装、土着信仰にイスラムの教えがミックスして今に至るとされる。
元々、古代ローマ時代から十字軍、そして現在に至るまで中東は戦争の歴史。本来は主不在の時、敵による拉致やレイプなどから妻や娘を守るために、美しいところを隠しなさいとしたのでは、という史料見解があり、コーランにはヒジャブそのものの記述はないという。しかし今や、イランではヒジャブ一つで殺されてもおかしくない国になっている。
いつしか教えは権力を振るう者の都合のいいように行使され、女性や子どもを所有物のように扱えるものとなった。
選択の自由を誰もが行使できる世界の実現は遠いと感じる。外からできることは僅かだからだ。
面白いけど
観ててハラハラするしね。どうなるんだろうって。
テーマもはっきりしてて分かりやすい。
ただこれ観てね、じゃあどうすんのって言われると、どうしようかってなる。
根っこのところに貧しさと男尊女卑があると思うの。
それで、それ、どうすんのってなると、どうするんだろうって。
イスラム教国でも男女同権を確立すべしって運動すんのかっていうと、それはちょっと違うだろうなあ。
ただフィクションを通じて、イスラム教国の現実を少し知ったっていうのは良かったんだろうな。いつか、どこかで、判断迫られたときに、少しだけましな判断を下せるかも知れないしね。
映画を通してイランというイスラム社会を知る
もちろん映画のストーリーは残忍であり得ない殺人鬼の話しだが、その男の犯罪の背景にあるアッラーの神を信奉する敬虔なイスラム教徒の心情や、イスラム社会の大衆心理がより恐ろしい。
街に溢れる娼婦を容認しながらも、その娼婦たちを神を冒涜する不浄なゴミの如く糾弾する社会って何⁇
日本人はソープ嬢を不浄な輩として連続殺人するような倫理観はない。豊臣秀吉や徳川の時代から吉原、柳原、福原と明治期も存在し、形を変えて現代にはソープが立派に商売を許されている。
しかも、この映画の時代が2000年代だという事に、驚き、やはりこうも宗教観、価値観の違うイスラム社会とは、もっともっと「対話」を重ねるしかお互いにあゆみ寄れないだろうなぁと思う。戦争よりももっと沢山の対話の必要を深く考えさせられた映画だった。
空から撮った映像とタイトルが重なる
衝撃的な内容なうえに、見終わった後に難題を突きつけられる作品。物語の早い段階で犯人を映し出し、その鮮烈な犯行シーンをありありと見せつけられる。
ジャーナリスト・ラヒミを物語に入れることで、イランの女性蔑視、男尊女卑に関することも浮き彫りに。
娼婦を悪、生きる価値がないとみなして、一掃しようと勝手に使命を持つサイード。
サイードが捕まった後も、無罪だと声を上げる信者や家族(普通におかしいだろ!?)。
宗教の恐ろしさを痛感させられる。
そして、娼婦を生み出す社会にも問題があるし、それを放置する警察や政治もめちゃくちゃだ。
ラストは2度にわたりサプライズが用意されているが……
息子が取材に淡々と応じて、反抗シーンを説明するところも恐怖だった。第二のサイードにならないでほしいと願いたいが、いずれ第二のサイードが誕生するのだろう。
なかなかよく出来たストーリーだった。
タランチュラ男 vs 女郎蜘蛛
クモは巣を張って待ち構えるタイプとタランチュラのように巣を作らないで動き回って獲物を捕らえるタイプに大きく分類されます。
題名から女郎蜘蛛の話だと思ってました。
原題は Holy Spider 。
この映画の題材となった実際の事件で、聖地で商売をする街娼を聖地浄化を理由に次々に殺害にする犯人をマスコミがヒーロー視してスパイダーと呼んだことがはじまり。巣を張るのではなく、みずから獲物を探しにバイクで出掛ける。イラン第2の都市マシュハド。シーア派の聖地が舞台。
イランの映画は「英雄の証明」、「白い牛のバラッド」、「ホテルニュームーン」しか観てない。
これらの映画では裁判と処刑がうんとスピーディ。宗教が絡んでか?三権分立がちゃんとしていない感じ。
「ボーダー 二つの世界」の監督の作品。この監督はイラン出身だとこの作品で知りました。北欧の人とばかり思っていました。
新聞社をセクハラで不本意なかたちで解雇された女性ジャーナリストが真相を追ううちに自らをオトリにしてしまう展開はもちろん期待もしていましたが、あのおデブ姉さんの死んでからのアシストがなかったら完全にクモの糸でグルグル巻きにされてましたね。犯人は手首が治るのをなぜ待てなかったのかと言ったら野暮ですけど。
ハラスメントに苦しむ女性ジャーナリストが街娼に肩入れする気持ちはひしひしと伝わって来ました。イスラムは女性差別が色濃く残る世界。
個人的に、あんなきれいな若い嫁さんがいて、小さい可愛い子供も三人もいるのに、夜な夜な出かける初老のジジイは何考えてんだ???でしたけど。
しかも自宅。
繰り返される絞殺シーンもなかなかリアルでエグかった。
このオジサンはネクロフィリアのケもありそう。繰り返すうちに絞殺自体に恍惚感を覚えてしまったのではないか。従軍体験もきっかけだった可能性も大。イスラム世界は死後6時間以内の死姦は許されるらしい。よくわかんないけど😵🌀
殺人犯であり、決して英雄ではない。
夜な夜な街で客を取る娼婦たちを殺害して街を浄化しているという犯人。娼婦たちは生きていくために家族のために仕方なくやっているんだろうに。娼婦だけが悪い?買う男たちは悪くないのか?浄化するなら客の男も浄化するべきではないのか?
逮捕された後の街の反応にも驚きである。息子は学校でいじめられるどころか、英雄の息子として称賛され、買い物に行けば、ただで物をくれたりと、街中が応援体勢。犯人の奥さんまで、娼婦を悪く言い、夫を正当化する。
最後の父親の行為を再現する息子、娼婦の役を妹にやらせる。母親も止めないんだ!異様な国た。
イランの聖地マシュハド。 イスラム教の聖地であるが、夜になると街中...
イランの聖地マシュハド。
イスラム教の聖地であるが、夜になると街中には娼婦が溢れている。
そのマシュハドでは娼婦をターゲットにした連続殺人事件が続いており、都度、新聞社には死体遺棄現場の告知が犯人から届けられていた。
警察の捜査は進まない中、女性ジャーナリスト・ラヒミ(ザーラ・アミール・エブラヒミ )は危険を顧みずに、単身、事件を追うことにした・・・
といったところからはじまる物語ですが、いわゆる犯人捜し・意外な犯人のミステリではなく、巻頭早々に犯人は明らかになります。
エンタテインメント性からはかなり遠い作品といえます。
興味深いのはイスラム社会、イランの生々しい現実。
冒頭殺される娼婦の出勤準備の様子から、これまでのイラン映画とは全然異なることがわかります。
薄暗い部屋で、上半身裸で濃いルージュを引き、ヒジャブ代わりの派手なスカーフを被り、身支度を整える女性。
傍らには幼い子ども。
マシュハドの中心街も煌煌とというにはほど遠い街角に娼婦たちがたむろしている。
そして、殺人・・・
殺害の様子も生々しい。
女性ジャーナリスト・ラヒミに対する扱いも甚だしく、独身女性が単身でホテルに泊まることは忌避されているようで、難癖をつけて宿泊を拒否。
(最終的にはジャーナリストとわかり、部屋は確保できるのですが)
また、取材に応じた警察幹部も女性蔑視は明らかで、なにかにつけて性的な行為に及ぼうとしたり、と兎に角ひどい。
この生々しい現実は後半、おぞましさに変貌します。
犯人が最後に殺すベテラン娼婦とのやり取りはすさまじく、これまでならばヒジャブによる絞殺に至るのだが、体格差からそうはいかず、激昂した犯人は素手で何度も何度も殴ります。
このシーン、ほんとにすさまじい(一瞬ですが、日本の今村昌平監督作品を思い出しました)。
この惨劇が、アパートの自宅の一室で行われていることが、さらに気分を陰鬱にさせます。
で、最終的には、ラヒミが自らを囮にして犯人は逮捕されるのですが、そのあとはおぞましさが浮かび上がってきます。
犯人は、イスラム法を実現しただけと反省に色はなく、市民の多くも犯人に共感を寄せる。
十代の息子も、犯人の父親を尊敬し、最後には父親から聞いた殺害の様子を、さも誇らしげにテレビカメラの前で披露する・・・
『ボーダー 二つの世界』では、生々しいファンタジーの世界を描いたアリ・アッバシ監督。
今回は生々しくおぞましい現実社会を描きました。
監督自身がイランのテヘラン出身ということで、これまで描かれなかったイランの現実社会を描いたのでしょうが、海の向こうの世界、他所のハナシというように傍観しているだけでいられないところも感じました。
どうも、身の周りの社会も少しずつおぞましさが表れつつあるような感じがして仕方がないのです。
社会にはびこる哀しき現実
「お前何様だよ!」怒りの感情がコントロール不能になった
街を浄化するだと?
娼婦16人を殺害、イランで実際に起きた事件に着想を得た作品だがドキュメンタリー映画と思う程の恐ろしさがあった
実際は犯人を支持し英雄視する市民は一部だったそうだが
だいたい買った男達は何なのさっ!
こっちの浄化はどうする?
不平等で不公平な現実に怒りと切なさが止まらなかった
被害者にも家族がおり、それぞれの事情と悲しみと真実を少しでも訴えたかった監督の気持ちが伝わってきた
犯人の妻も同じ女性である被害者達を罵倒し軽視する…同性であっても環境や境遇で格差が生じてしまうのは哀しき現実なのだ
事件を追う女性記者を演じたザーラ・アミール・エブラヒミ
危険を顧みず犯人に近づく後半は異様な緊張感に体が震えた程、迫真の演技でした!
カンヌで女優賞を獲得したのも納得!
犯人の息子がゲームを楽しむかの様に幼い妹を
モデルに父の手口を再現する
それを止めもしない母親…あまりにも衝撃的で哀れな結末に嘆きの溜息しか出なかった
継承
映し出される遠景。
街の光が、雨の雫を抱く繊細な蜘蛛の巣のように美しい、そこはマシュハド。
巡礼の聖地といわれる都市で起きた二十数年前の犯罪を元に構想された本作。
そのリアリティは、鋭利な刃物をちらつかせ、退廃的な路地裏の怪しい静けさにうごめく恐怖を連想させた。
そして、そこからわかるのは、人権、差別、貧困、薬物、教育格差など、目を逸らしたくなることもある負の連鎖にうまれる問題が、あたかも弱点を追い詰めるように狙いを定めてくること。
このダークサイドに関わるのは、皆、〝自分を〟生きる為に…だということ。
当然、こどもたちの無垢と無知は環境と一緒にいる大人の理論の影響を存分に受ける。
もちろん全てが悪ではないが、もし、それがどんなに不条理だとしても、常識と非常識が独自に設定されていく。
それを選ぶことはおろか、知ることさえないまま。
そのなかに、いつのまにか蝕まれゆく危うい継承があることを犯人の心理とその一家の様子、ジャーナリストの視線を軸にして語っていくのだ。
………
戦地から戻ったサイードは、突然コントロールできないほど自分を見失う行動をみせる。
心に深い傷を負っているのは明らかだが、普段は建築関係の仕事で家族を養う子煩悩な父親であり優しくい夫だ。
そして彼は街を震撼させている娼婦連続殺人の犯人でもあった。
街の〝浄化〟を大義名分に立て闇に彷徨うサイード。
犯行声明を出し存在をちらつかせ、怪しいと目撃されながらもなかなか捕まらない。
それはなぜなのか。
一方、この犯人逮捕への手がかりを得ようと、身を呈してマシュハドに乗りこんでいくジャーナリストのラヒミ。
危険極まりない事件への恐怖を越え、真理のために目をそむけない彼女の勇敢さ。
それをかりたてるラヒミ自身の過去とは。
さらに悲しいことにそう言ったことが未だに身近にはびこっていることを織り交ぜてみせていく。
ショッキングなラスト。
〝父の後継者に〟と一部の人々から推されたことを意気揚々語る処刑されたサイードの息子。
父から伝授された手口を誇らしげに話す姿。
それを楽しそうに手伝うあどけない妹。
一筋のためらいもなく撮影する母親。
サイードはもういないが、その正義は確かに継承されたのだ。
遠い国の話、宗教やお国柄がからむ話、と、そういった選別や偏見なく、この流れはどこにでもおこりうるのだと感じ思わず眉間に皺を寄せた。
誰かの信じるものを頭から否定するつもりはない。
けれど、ビデオに映ったあの息子は大丈夫か?娘は?母は?
親としての私の感情が手伝い、混沌とした気持ちが押し寄せる。
おそらく事件はおさまっていない。
ずっとずっと、国、法、地域性、宗教が社会情勢とかわらない連鎖に絡み合い、矛盾を匂わせながら続いているのだろう。
光るあの雫は、幸せな暮らしの灯りではなく、歪んだ正義が呼ぶまやかしだったのか。
いや、断ち切れないつながりがこぼした切ない涙なのかもしれない。
忍び寄る今夜のとばりにも、生きるために死ぬかもしれない彼女たちは街角に立つのだろう。
サイードのような正義を掲げ、誰かが近寄ることをわかっていたとしても。
では、どうすれば?と考える。
選べずに、生きていくこと、信じること、受け継ぐこと。
知識や道徳教育の重要性がわかっていても、かえられないものもある。
単純にはいかない問いかけの難しさが、自分の足枷になったように帰り道の足取りが重くなった。
しばらくたつが答えは降りてこない。
⭐︎の数、間違えてたので修正しました。
【"聖なる街の浄化。そして、狂信。"ラストの犯人の息子の映像には、絶句した作品。女性蔑視の風習や、狂信的な負の連鎖に対してアリ・アッバシ監督が怒りを叩きつけた作品。犯人を英雄視する民の姿も恐ろしい。】
- イマーム・レザー廟があるイラン第二の都市、マシュハド。その街で16人もの娼婦が絞殺される。-
◆感想
・女性ジャーナリスト、ラヒミ(ザーラ・アミール・エブラヒミ)は危険を犯しながら女性蔑視の街で娼婦殺しの犯人を捜す取材を続ける。
・犯人のサイードは何の呵責も無く、娼婦達を次々に同じ手段で手に掛けて行く。
ー ”聖なる街を浄化しているだけだ”と言い放つサイードの姿が恐ろしい。16人も殺害しながら・・。-
・サイードの妻が夫の行為を正当だと言ったり、司法は腐敗していたり・・。
ー 愚かしき警察署長のラヒミに対する接し方。マシュハドの根本には女性蔑視が蔓延っているのである。
・判決で死刑を言い渡されたサイード。腐った司法の仕組みから逃れるのかと思っていたら、流石に娼婦たちと同じように絞首刑・・。
ー だが、彼の家族や街の民の一部は彼を英雄視する・・。-
<最も恐ろしかったのは、サイードが処刑された後に、ラヒミが自ら撮った映像で見た、サイードの息子アリが、誇らしげに父親が娼婦を殺害する方法を披露するシーンである。
又、サイードが民から英雄視されるシーンも恐ろしかった作品である。>
「ただそれだけ」の一本?
ふつうに考えても、彼(サイード)の行動を正当化するのは、難しいように思いました。評論子は。
「おじさん、おじさん。聖地の浄化か何か知らんけどさ。おじさんのやってることは、マジ紛れもなく、立派なコロシなんだからさ。そのうち捕まるよ、警察に。」と思っていたら、案の定、捕まっただけの話。
それに、他のレビュアー氏も指摘するように、「世界最古の職業」が成り立つのは、そもそもが需要がある(買い手がいる)からなのであって。
男尊女卑だか何だか、これも知らんけど、それなら片一方だけを嫌悪して、供給者だけを退治するというのも、どだいが片手落ちでしょうが。
(女性が、単身者であることだけを理由にホテルの宿泊を拒まれるようなお国柄だったとしても、さ。
それに、そういうことを生業にせざるを得ない女性の側の事情というものにも、配慮が行ってないんじゃない?)
あれだけ派手にやっちまったんじゃあ、極刑になってしまうのは、それはそれとして致し方ないとして。
旧知の友人が、ああ言ってくれたのは、別に騙すつもりじゃあなくって、「最後の日まで平穏な気持ちで過ごせるように。」という心遣いだったと受け止めることもできるんじゃあないかなぁ。
…と、思いました。評論子は。本作を観終わって。
タイトルの「おどろおどろしさ」とは裏腹に、忌憚なく言えば「その程度の作品だった」と評したら、言い過ぎでしょうか。
(追記)
サイードの旧知の友人の言動なのですが…。
実際、彼らがその立場を利用してサイードの釈放について、行刑当局に働きかけをしたのではないかと思い直しました。それで、彼らのあの言動になったと。
しかし、行刑当局は(彼らの働きかけにもかかわらず)動かずに司法の判断どおりに判決を執行した―。
行刑当局は「法による支配」を貫いたということでしょうか。
そうだとすれば、宗教的な価値観がすべてを規律する(?)サイードの国でも、民主的統制の片鱗が見え始めたと言えるのではないでしょうか。
評論子が評の一部を改めることについては、humさまから貴重な示唆をいただいたことを付言したいと思います。
所変われば…
イスラム教なんだろうか…基本売春は世界的に違法なんだろうが、アングラでは認められているのが一般的なんだろう
流石にあれだけの数の女性を殺してしまうと、世論も支持すると思ったが、そうではなく支持する人々があれだけいるのはカルチャーショック
終わり方も何だかな〰️
なぜこんなに評点が…
何が悪か
それぞれの立場で大きく違いますね。聖地としての尊厳を保ちたい者、生活をして行く上で売春をしてクスリに溺れる者、殺人を悪として追求して行く者。サイードが行った殺人は良く無いと思いますが、それを善として崇める環境や家族には怖ささえ感じます。息子はこのまま行くと踏襲しそうですね。
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