わたしは最悪。のレビュー・感想・評価
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何も選択しないという選択
「女性はこう生きねばならない」というくびきから解放されたものの、決断をすることの責任感は増した現代女性。
愛されること・結婚すること・子どもを産むこと。
自分に確固たる「核」がない故に、パートナーと暮らすことで「自分の人生を生きている感覚がしない」または「人生のわき役のような気分になる」という物足りなさを抱いているユリヤ。
自分に重なる部分もあり、直視できない痛みがあった。やりたいことがありすぎて、何も成し遂げていない焦燥感…。
主人公は傍から見れば、複数の男性から愛されて未来を望まれて、幸せになれる可能性に満ちている。誰ともパートナーシップを築けなかった人からみたならば、なんてもったいない、羨ましいと思われる立場であることは間違いない。
でも、愛を受け入れたら最後、自分は「パートナーの恋人」以上の肩書は持てないし、子どもを産んだら最後、子育て中心の人生になってしまう。承認欲求はあるが自己肯定感は低め。
だから「どんな選択肢も選びたくない」。ユリヤを通して、監督はそんな複雑な現代女性の揺らぎを鋭く突いていると思う。
生理がきたのか流産したのかわからないが、最後のシャワーシーンのユリヤのほっとしたような顔が印象的。
でも元恋人の死に際からも目を背ける姿は、まさに最悪だと思った。
30代が一番惑った
私は仕事も恋愛も30代が一番惑っていました。だから、ユリヤの気持ちが良く分かります。
紆余曲折あり、アクセルは亡くなり、ユリヤは流産し、アイヴィンには子供が誕生した。ユリヤに関係があった人達の生と死が見事に対象的に描かれており、私を含め全ての人に当てはまる実に普遍的なテーマを扱っていました。作品のメインはここかな?と思います。
生と死は刹那。人生は不確かで不条理。
ボヤボヤするなわたし❣️
時間を止めて会いに行きたい
「わたしは最悪」って言うほど、最悪じゃないやん、って言うのが第一印象ですよ。医大から心理学へ転身し、物書きに中途半端に手を出したり、カメラを手に取ったり。年上の彼との同棲から情動に任せて浮気しーの。その浮気相手とも別れて、物語りの最後ではカメラマンとしての生活を送っている。
途中に妊娠や母親になることへの怖れ、何ての織り込んで来たりするんで、こりゃありがちな、女性の自分探し&自立物語りであって、「最悪」ってほどの話でもなく。
と物足りなさの残る映画なんですが。
不思議と。奇妙なことに。
「The Worst Person in the World」と言う原題フィルターを通して物語を眺め直すと、印象が変わります。"Person"なんっすよ。”Woman”でもなく、「私」でもなく、客観的に”Person”なんですよ。
確かになぁ。主人公は、いくつかの場面で、最悪の選択をしてしまう最悪の人物、って言えなくも無く。流れに沿って、一人の女性の生き方として見ればですよ「ただ自由に生きてるよね」って言うだけの物語りですが、局面局面では最悪の選択を積み重ねてたりして。
脚本が技巧的、って、見終わってから感心することしきりです。
と言うか、邦題、酷いね、地味にw
ユリヤ役のレナーテ・レインスベのカンヌ主演女優賞には納得です。128分の間に、よくも、これだけの表情を見せてくれたなと。それにも感心致しました。
よかった
評判が高かったので見たのだけど、自分は女性ではなく、子どもが好きなのであまり共感できるところがない。
せっかく医学部に入ったのなら医者の資格を取ってから別の道に進むのがいいのではないだろうか。その道の枠のなかで自分に合う方向を目指せれば、それが精神科でもいいし、途中で道がそれ過ぎだ。カメラなんて極端な話、中卒でも関係ない商売だ。もともと教養の高い層に所属している人は、そこに価値を感じないのだろうか。僕はヤンキー高校の出なので、賢い人たちとそうでない人たちの違いがすごく分かる。もともと教養の高い層の人なのだろうそこも共感できない部分だ。
正確に難ありと言ってもそもそも美人だし、持たざる者ではなく、それほど最悪ではない。僕の知っている若い人は、本当に見てくれが悪くて友達もいなくて親ともうまくいかず、お金もない。その人に比べると全く最悪じゃない。
勝手に見知らぬ人たちのパーティに入っていくところはハラハラする。
共感したくなかったけれど
この作品のレビューを読んでいると、沢山の「主人公が我儘すぎて共感出来ない」「自分探ししすぎ」「思いやりがない」というコメントに出会う。
主人公のユリア、良く言えば自分に正直で魅力的だけど、本当に自分勝手で甘ちゃんですよね。
私はこんなにモテても優秀でもなかったけど、ダメなところはめちゃくちゃ身につまされてしまった。
歳上で才能ある恋人が好きだけど、一緒にいると自分の何者でもなさがコンプレックスになってしまう。妻や母親の役割を引き受けるのも受け入れがたい。
それなら仕事や自分自身にもっと向き合えばいいのに、居場所を次の恋人に求めてしまう。
作中でいちばん「あちゃー、最悪だな」と思ったのは、ゴミ箱にあった原稿を拾って褒めてくれたアイヴィンに、八つ当たりで怒るシーン。
「落ち着いて50歳になってもコーヒー淹れてれば?」
自分が何者にもなれてない焦りとプライドと、アイヴィンのことそんな風に見てたんだ…っていうのが合わさったひどいセリフ。
いちばん「甘えてるなー」と思ったのは、病気のアクセスに「いい母親になるよ」って言ってもらうところ。自分が浮気して振っていて、相手は余命わずかで辛いのにね。でも、この友情がちょっと救いでもあるんだけど。
ひどいひどいと書きましたが、ここまで主人公の勝手さや子供っぽさを描きだしたのは本当にすごいと思う。
この映画に限らず、30前後の女性の焦りや葛藤を描いたストーリーはとても多い。妊娠出産のリミットが迫り来ることと、未熟でも若くて魅力的だった時期が過ぎていくことの焦りは、世界共通なんだなと感じた。
ユリアはエピローグでようやく腹をくくって自立していた。この先はどうやって幸せに生きていくんだろう?
答えはないだろうけど、知りたいと思った。
自身に正直に生きようともがくユリヤ
ユリヤを演じるレナーテ・レインスヴェのナチュラルな美しさと、リアルな静と動の演技に魅了された。
聡明な恋人アクセル( アンデルシェ・ダニエルセン・リー )と、パーティーで出逢ったアイヴィン( ハーバート・ノードラム )、二人の男性の間で揺れるユリヤ。
作品の中の男性が皆、保守的ではあるが家庭的で優しい。感情をぶつけるユリヤと向き合う彼らの姿がリアル。
映画館での鑑賞
女性のキャリアは北欧といえどもなかなか厳しい
一般的には、北欧でも家事、育児は女性主体で、キャリアプランが描きにくいと言う報告を読んだことがある。北欧は、女性も男性と互して働くイメージがあっただけに
驚きを覚えたが、この映画はまさにそんな北欧の女性の苦しさ、もどかしさを描いている。
やりたいことがあっても、パートナーを優先したり、そこでストレスを溜め込んだり。最後には好きな仕事につく。この直前に最初のパートナーの臨終のシーンで別れるんじゃなかったでは、陳腐な終わり方になったけど、そうでない終わり方であったところもよかった。
ミニシアターで、ほとんどが女性。男性は数えるほどだったが、こう言う映画は口コミで人が来てるんだろうなと思った。
それほど最悪じゃなかったと思うけど。
30歳前後の迷子の女性たちやま過去に迷子だった女性たちは、苛立ったり羨ましかったりあるあるーな展開では?
やりたいこと見つけたやってみたこれじゃない感(実行できるのすごいよね)、焦りとか、そこを基点とする暴走とか。
人間関係の拗れとかは個人的には友達がこんな子なら忠告したり、距離おこうってなるけど、正直にそれを選択して、違和感を隠さずぶちまけて、そこから始まるスタンスの彼の国ではありなんだろうなって。それは羨ましいですよ。
最後スチールカメラマンとして職を得て自立しているのは結果オーライだったと。
子供はいらないと言ってたアイヴィンがきっちり子供を持つ父親になってるのは、これ、あるあるなんですかね、男性的に。
タイトルなし
なんかこの、そこはかとない邦画感はなんだろう。映像表現とか暮らしぶりが漫画っぽいからだろうか。あと、死別が『セカチュー』とか『愛と死をみつめて』(古い…)とかの記憶を呼び起こすからか。
とはいえ、それっぽいことやるけど、何にも対して思い入れられなくて自分を賭すことができず、きらめいて見える瞬間的な快楽を幸せと無意識に誤謬するというのは身に覚えがある人が多いのではないか。フェミニズム“ぽい”わりには…という批判もあるようだけど、そのペラペラの描かれ方は、彼女がそれを便利な対象として利用しているだけだという、彼女の空虚さの表現として、かえって効いているようには思った。
令和最新版SATC IN オスロ
恋愛映画なんて滅多に観ないものだから、心をどこに置いて臨めばいいかわからないのである。恋愛観なんて人それぞれだし、その価値観が合わなければ共感なんて出来ない。人生にも恋愛にも移り気な主人公が何をしても何を言っても心には響かない。残念ながらそれが感想。
おそらく女性の方が相性が良さそうな作品だ。ノルウェーに令和も平成もないのだが、その題材や環境は、まるで令和最新版。そして、クセの強い女性が恰好良さげに生きる姿はSATCのそれなのだろう。いや、ほとんど観たことは無いんだけど…。
妻と二人で観覧し終え、併設された喫茶店で感想を言い合う。彼女からも同じタイトルの名が出たから、凡そ間違ってはいないのだろう。しかし、この時間を経ることで、特に響かなかった作品をもう一度観たくなったのだ。
移り気な自分と隣にいるプロフェッショナル。仲間とのクリエイティブな会話にゲンナリし、医者の振りをしてみたり、子連れの常識に振り回されたりする。漫画家からの賞賛に頬を赤らめ、カフェ店員の賛美は怒りの対象にすらなってしまう。この話の主題はコンプレックス。そう捉えると、まったく違うユリヤの姿が浮き見えてくるのだ。
そして、自信を与えられなかったと嘆くアクセルが、最期の姿を通して彼女に何かを与えられたとしたら…?映画を観終えた数十分後に鳥肌が止まらなかった。やはりもう一度観なければいけないようだ。
投影
たいていの私は、まわりに自分をあわせていくことに平気でいる。
多少のハテナ?は置き去りにしても思い込むことさえできる。
こどものころからの慣れに加え根本的な性格は、あえて波風を立てることを一番に嫌いそこに凪を生み出し保つバランスを知っている。
断然、その役割で楽にいられる。
そんなわたしからみたら、ユリヤは真逆の位置のひと。
十分好き勝手に生きていると言える。
しかし、わがままだとは思わず、むしろユリヤのように自分の心の声と次のアクションがリンクしている素直さに憧れそのままどこまでも彼女らしく進んでほしいとわくわしながら観ていたことに気づく。
ユリヤは結果的に心から愛し愛された2人の男性との別れが訪れたけれど、それもあの素直さで得ることができた人生の一幕。
もちろん、基本どの過程にも他人を傷つけないルールには則って進んでほしいけど…
やっぱり傷つけてしまう部分は避けれない。
だけど、忘れてならないのは、彼女は、そんな時逃げるわけではなく必ず真正面から語るところ。
そこに彼女の魅力がある。彼らも彼女のそんな素直さに惹かれていたから納得してくれたんだろう。
人生って1回だし、年齢に応じた行動範囲もそれぞれ。
明日、いやこのすぐあと幕が降りるかもしれない儚さを常に纏っている。だったら、たまには内なる声に耳を傾けてみたら?自分で凝り固めた枠をとり払ったり、ゆるめたりしてみたら?ただし、かならずユリヤのように
自分と同じく相手に対して真心を添えてね。
私にとってオスロの白夜は広く遠い世界の存在の象徴。
そんな異国の町のだれかの数年の日常の切り取りに違う生き方を投影できる体験はいちばん私を知ってる私が私に語りかける時間だった。
オスロで暮らす30歳のユリヤ(レナーテ・レインスヴェ)。 成績優秀...
オスロで暮らす30歳のユリヤ(レナーテ・レインスヴェ)。
成績優秀で、大学では医学を志したが、詰め込み教育と遺体を扱うのに慣れず、心理学へ転向。
ここでも詰め込み教育に慣れず、若い講師と付き合っていたけれども、別れて転職。
カメラマンを目指すが、本気かどうかはわからない。
ある日、年上のグラフィックノベル作家アクセル(アンデルシュ・ダニエルセン・リー)と知り合い、同棲を始めるが、彼に誘われて行った友人たちとのファミリーパーティでは子どもや他のカップルに辟易。
アクセルも急に「子どもが欲しい」と言い出す始末。
アクセルとの間にも倦怠期が訪れたある日、見知らぬパーティに無断参加したユリヤはコーヒーショップで働く青年アイヴィン(ヘルベルト・ノルドルム)と出逢う。
彼もまた、環境保全に傾倒する彼女と関係が冷えつつあった頃。
すっかり意気投合、ほとんど不倫寸前までいったふたりだが、どこかに歯止めはあったようで、その日は別れたのだが・・・
といった物語で、序章・終章と12の章との章立てスタイルの映画は、ここいらあたりが中盤。
前半、「こりゃまた、こじらせ女性の困った映画を観ることになるのかしらん」と恐れおののいたけれど、アイヴィンと知り合ったあたりから俄然面白くなります。
たぶん、環境保全にのめり込んでいくアイヴィンの彼女の様子が可笑しく、覚悟も信念もないユリアとの対比が際立ってくるからでしょう。
まぁ、アイヴィンの彼女の行動は、日本人からみると過激で行き過ぎなのかもしれませんが、北欧の人々からみると「最悪」ではないのでしょうか。
後半に行くにつれて、ユリアが「最悪」なのがわかってくるのですが、それはまさしく、状況に掉さすだけの才能も才覚もありながら、自分の未来に対する「覚悟」や「信念」がないこと。
彼女を取り巻く状況は最悪ではないのですが、信念や覚悟がない生き方こそが「最悪」。
そんな状況を変える転機がユリヤに訪れます。
アイヴィンと関係を続けるうちに予期せぬ妊娠をしてしまうのです。
ユリヤ本人が変わる前に、状況が彼女を変えようする。
さらに、別れたアクセルが末期の腎臓がんだということを知らされ、死んでいこうとする元カレを目のあたりにする。
終盤の決着がいいです。
凡作ならば、アクセルの死とユリアの出産というわかりやすい対比・希望のようなものを提示するところですが、運命は皮肉。
出産を決意したユリヤが流産してしまう・・・
ここを静的に抑えた演出でさらりとみせて、終章へとつなぐ演出に好感が持てました。
短い終章では、彼女の人生に対する覚悟が描かれていて、ほっとしました。
そういえば、アクセルと別れる際にユリヤが言っていた台詞、「あなたと一緒にいると、わたしは私の人生なのに脇役になっている」という台詞、その答えが終章に描かれているように感じました。
秀作。
わたしは最悪。なのか。そうでもないのか。
面白かった
もしかしたら、合わないかも、と思ったけれど、そんなことは全然なかった
あと、冒頭に、プロローグとエピローグと12章があると説明が入るから、観てて、メリハリがあった
自分の人生の選択に迷うことなんて、たくさんあるはず
選択するときも、選択した後も
結局、何者にもなれていないように感じることも普通にあるはず
長年付き合った相手とのあいだのズレ、感じる違和感、そんなときに別の相手への想いが芽生える、それもまた起こり得るはず
ユリアが我が儘なわけでも、タイトル通り、最悪なわけでもなく、それを描き出しただけのように思えた
後半に予想してなかった辛い展開があり、彼女の人生はまた動く
そして、迎えたエピローグ
何者かになったようにも見え、手に出来たはずのものを取りこぼしたようにも見え、何とも言えない気持ちになった
ユリアでなかっただけなのか
そういうご縁だったのか
そして、これもまた、現実にもあることだよなと思いながら
最悪……じゃなくて、サイテーでは?
メチャメチャ、ブスに見えたり、すごくキュートに見えたり。
それがユリアの魅力なんだろうな。
それにしても、出だしの大学から最終章まで、何とも自分探しの長旅だこと。
すでに30過ぎてるし、それなのに失敗して妊娠とかって、あまりにも無責任。
まあ、若気の至り的なお話ならばだけど、やりまくるにもその年で?だし、マジックマッシュルーム初体験にしては、年取り過ぎてない?
ようやく落ち着いたところが、そこなのか。
後先考えずに、ヤドカリ的な生活ってのもね〜。
ちょっと、辛口だけど、見つけた男はどの人もいい人。本屋でバイトしてるだけの自分は棚に上げて、50になってもコーヒーだしてれば?って、マジサイテー。
でも、いい人見つける目はあるのか。
救いはそこだけ?
『花束みたいな恋をした』みたいな
『世界で一番最悪な人間』とは一体誰のことなんだろう。新しい物を見るとすぐに目移りする主人公ユリアなのか?それともアングラコミック界で成功をおさめ、ユリアと同棲をはじめるアクセルのことなのか?GUARDIAN誌のピーター・ブラッドショーに言わせると、アクセルがその『世界で一番最悪な人間』らしいのだがどうもストンと腑に落ちない。全く個人的な意見で申し訳ないのだが、ユリアの誕生日に「腰が痛い」と言って姿も見せず、ユリアに使用済みのタンポンを夢の中で投げつけられる、母親と自分を捨てて別の家庭を持った父親こそ、監督ヨアキム・トリアーが“最悪“だと思っている人物像なのでは、と思ったりしたのである。旧態依然とした道徳や倫理にいまだ縛られてている保守的な方が見ると、定職にもつかず男を取っ替え引っ替えしているモラトリアム女子ユリアこそ最悪に思えるのかもしれないが、「そんな超テキトーなところが最高なのさ」と少なくともヨアキムは思っているに違いない。
デンマーク生まれのノルウェー人ヨアキム・トリアーは、本作をオスロ三部作の最終章に位置付けしているらしい。ノルウェーの首都オスロの都市化とともに、そこに暮らす人々がどのように変化し、そして映画監督としての自分がどう変わっていったのか、はたまた、変わっていくのかを、静かに見つめた三部作だったのでないだろうか。前二作はいまだ未見なので偉そうなことは書けないのだが、三部作に共通して出演している俳優アンデルシュ・ダニエルセン・リーや、本作の主人公ユリアにある程度自己投影している映画のような気がするのである。キャリアアップしていくパートナーの華々しい活躍を横目で見ながら、いまだ何者にもなれない自分にフラストレーションが溜まっていくユリア。「まだ硬くなっていないふにゃチンが好き、私がこれから硬くしてあげられるから」言い換えれば、(何者かになる前の)他人に何がしかの影響を与えられるインフルエンサーになることがユリアの夢だったのだろう。最後は写真家として生計を立てていきそうなユリアの姿に、そこはかとなくヨアキムの“残像”が重なるのである。
本作をみた某映画評論家が坂元裕二脚本の『花束みたいな恋をした』みたいな映画だと感想を述べていたが、大量の情報を与えられ生き方のチョイスを迫られるユリアは、まさに花束のようなコンテンツに囲まれ生き方を見失っていく日本の若きカップルそのもの。確かに、ポップカルチャーを武器に世間(この映画の場合はオスロという都市)と対峙しようとする麦と絹の姿は、アクセルとユリアの生き方に似ているのかもしれない。漫画家のアクセルが自分の仕事に埋没していく様子は麦のリーマン生活そのままだし、ユリアが都市をおし流していく時間の流れを一旦止めて不倫相手に会いにいくシークエンスは、絹がゴールデンカムイやゼルダの伝説にのめり込み現実逃避をはかる様子にそっくりだ。結局、麦と絹が世間という大衆社会に屈服し飲み込まれていくのに対し、フェミニズム的コンプライアンスに対決姿勢を崩さなかったアクセルは病死、ユリアはその遺志を継いで映画のスチールカメラマンになるのである。
ユーロ系の才能ある若き映画監督(アリ・アスター、ロバート・エガース…)が、スウェーデンの巨匠イングマール・ベルイマンの影響をそろって口にするのを最近よく見聞きする。ヨアキムもまた、無意識のうちにベルイマン作品に影響を受けていたことをインタビューで語っていた。どれが本当の顔かもわからないほど何枚もの“仮面”を被っては捨てていくユリア。そして、娘の生き方に全く無関心、訪ねてきた娘に再婚した女の娘と同じジャージをプレゼント、腰痛を理由にソファに座ったまま動こうとしないユリア父の姿に、沈黙する神との共通項を見出したからではなかろうか。そんな最悪の神に対峙するためには、アクセルのように一つの生き方にこだわった末に病死するのではなく、人生いきあたりばったりのユリアのようなフローティングする生き方がむしろ相応しいのではないか。女性の寿命が35歳までだった時代とは違って、人生の選択にかける時間はたんまり残っているのだから。そんな寓意を感じた1本である。
小便博覧会
作られた国こそ違いますが「リコリス・ピザ」がクソほどハマらなくて、同じように走ってるシーンがあり、アカデミー賞ノミネート作品、しかも同日公開と変に縁のある今作も警戒しながら鑑賞しましたが、残念ながら全然ハマりませんでした。
なんてったって主人公ユリヤが好きになれません。恋愛映画は魅力のある人物であって欲しいんですけど、「リコリス・ピザ」同様そこそこのクズ且つ自己中で自分を否定しない傲慢女と、個人的には1番嫌いなタイプでした。
歳の差を気にしつつもユリヤを気にかけてくれてるアクセルが良い奴すぎるのもあって、よりユリヤの悪質さが目立っているように思えました。新しいもの、ときめくものがコロコロ変わって、八つ当たりなんかしちゃって、お前何様だよーって思ってしまいました。自分は否定しないと言いつつ、とにかく上からねじ伏せるスタイルがキツかったです。時を止めて会いに行くという流れや、ドラッグを効めて変な幻覚を見たりとぶっ飛んだ展開に着いていけなかったのも楽しめなかった要因の一つです。
1番引いたのはトイレでお互いの放尿シーンを見せ合ったシーンです。ユリヤとコーヒーショップで働くアイヴィンが浮気か浮気じゃないか論争をしている最中トイレで小便ちゃ〜としているのを見せ合うとかいう物語の品をドカンと落とすようなシーンにはドン引きでした。なんでこれがアカデミー賞に?と思えるくらいでした。お国柄でこういう事は普通に映画に組み込まれるんでしょうか?日本じゃまずAVでしか見ないようなものでした。あとセックスシーンにモザイクがかかっていたのも萎えました。見せないスレスレのラインで煽ってくれるのが性描写強めの作品の勝負どころだと思っていますが、そこを放置した罪はデカいです。
終盤も取っ替え引っ替えな展開でユリヤの優柔不断さが露呈しており、病人であるアクセルのベッドに潜り込む流れもはぁ?って感じで鳥肌が立ちました。
絵作りとかが綺麗だっただけに価値観の違いが思いっきり出たなって感じです。今年のアカデミー賞との相性はかなり悪いです…。うぅ…。
鑑賞日 7/11
鑑賞時間 19:05〜21:20
座席 C-12
女の人生の充足は自立でこそ得られる
高い能力と魅力的な容姿を持ちながら、自分にしっくりとくる行き場所ややりたいことを見つけられない…という主人公。
医学部→心理学→カメラマン…と転々とした挙句に、男性と恋に落ちたところからドラマが始まります。
自立していない女性にとっての恋愛って、自分の人生を放棄して男の人生に乗っかってしまう形になりがちですよね。
漫画家としての才能を開花させている彼の隣で、彼女は次第に焦燥感を覚えるようになります。
自分の人生なのに脇役な感じ、というのは、先天的な能力の高さ故の葛藤でしょう。
でも、自分の人生を生きる、を実現する方法が次の男との恋愛…ということがまずかった。
外的な要素に幸せを期待しても、自分は満たされない。キャリアや人生に対する不安や不満は拭えず、優しくて相性のいい彼にも50年後もコーヒー売ってんの⁉︎とバカにして八つ当たりします。
彼女の男性に対する甘えや依存は、父親との関係に難がある女性によく見られるものなので、キャラ造形にとてもリアリティを感じました。
父親とも決別し、流産し、彼とも別れ、男ありきの人生を捨てて自立の道を歩み始めたラストシーン。
彼女が描いていた未来ではないにせよ、そこには充足があるのでらないかと希望が持てました。
1つのシーンがすべてを変える
主人公ユリヤはアラサー女子。
彼女は、映画の冒頭では外科医を目指す医大生だったが、「身体より心に興味がある」と言って、医学部をやめて心理学を学び始める。
もちろん、医学部に入る困難さは承知の上で。
ところが、ほどなくカメラを学びたいと言い出して心理学もやめてしまう。
その頃、ユリヤはマンガを描いている恋人アクセルと出会い、同棲を始める。年上のアクセルは子どもを持つことを願うが、ユリヤにその気はない。
あるときユリヤは偶然出会った若いアイヴィンに惹かれる。そして彼女はアクセルと別れ、今度はアイヴィンと暮らし始める。
本作はプロローグと12の章、そしてエピローグからなる。
終盤の第11章、ユリヤは、アクセルがガンに冒されていることを偶然知り、病院に見舞いに行く。
邦題「わたしは最悪。」は英題「The Worst Person in the World」(世界で最悪の人間)の、ほぼ直訳である。
ここまで見る限り、ユリヤは自分で選んだのに簡単に心変わりして、フラフラと生きているように見える。
でも、本人は絶対に自ら「わたしは最悪。」なんてことは言わないだろう。もちろん、「世界で最悪の人間」という自覚もない。
では、このタイトルの意味は、どう理解すべきか?
アクセルの見舞いに行ったとき、ユリヤは妊娠していた。だが、彼女には産む覚悟もなく、アイヴィンも、そのことを望んでいない。
そしてアクセルには死期が迫っている。皮肉なことにアクセルは、ユリヤとの子どもを持つことを望み、彼女と一緒に人生を歩みたいと思っていたのに。
病室でアクセルはユリヤに「君は最高だった」と言う。
病院の食堂のような部屋でテーブルに座り、2人は話している。ユリヤがアクセルに手を伸ばす。
そのときカメラのアングルが変わり、天井から見下ろすショットになった。こんなショットは、本作では、ここしか出てこない。
ユリヤとアクセルを俯瞰するカメラ。
このショットは、初めてユリヤが自分を(見下ろすように)客観視した、ということを表しているのではないか。
自分のお腹に宿った新しい命。
そして死にゆく元恋人。
命に関わる事態に直面して、このとき初めて彼女は悟ったのだ。
「わたしは最悪。」だ、と。
このとき、ようやくユリヤは自分自身を振り返った。
「君は最高だ」と言ってくれたアクセルに、ユリヤは応えない。
が、このとき心の中で呟いたであろうセリフがタイトルになっているのではないか。
例えば、アクセルと暮らしながら、ユリヤがアイヴィンのもとに走ったシーンでは、ユリヤとアイヴィン以外はすべてが静止していた。
それほど周りが見えておらず、それほど身勝手だった、ということだろう。
アイヴィンに出逢った日、同棲する恋人がいながら一緒にトイレに入り、「これは浮気じゃない」と言うのも同様だ。
終盤には、もう1つ気になる演出がある。
ユリヤの心情を説明するナレーションが入り、ユリヤが、その心情を表すセリフを言う場面がある。
ということは、この映画の中の時間はリアルタイムで流れているわけではない、ということだろう。
未来のどこかの時点から、過去を振り返って描いているのだ。
エピローグ、ユリヤは写真家の仕事をしている。
第12章とエピローグのあいだでユリヤはものすごく変わったはずだ。
第12章で初めて自分自身を振り返り、自分を見つめ、自分がほんとうに目指したいものは何かを本気で考えたはずだ。そしてユリヤは写真家になっていた。
だから、エピローグでのユリヤは、それまでの彼女とは全然違うということが分かる。
そして本作は、時系列としてはエピローグからの視点で作られているのではないか?
そのとき、映画としては、第12章とエピローグのあいだのユリヤを描くという選択肢もあったはずだ。
この間、ユリヤはアクセルの死に向き合い、そして真剣に悩み、やがて写真家こそが自分の生きる道だということを見い出した。そしてアイヴィンとは別れた。
だが、本作はそこを描くことは選択しなかった。
第11章までの“最悪”の期間を丁寧に描くことで、第12章のターニングポイントと、エピローグでの変化を鮮やかに際立たせて見せたのだ。
なかなかに巧緻な構成に唸る。
では、この「仕掛け」を用いて本作が訴えたかったメッセージは何か。
第10章までのユリヤはモラトリアムだったと言っていいだろう。でも、本作は第10章までの彼女を決してネガティブには描いておらず、むしろ肯定しているようにも見える。
自分で「わたしは最悪」とまで言っているにも関わらず、だ。
エピローグのユリヤは写真家を職業としているが、ここまでにくるには相当な苦労があったはずである。
(思えばアクセルと付き合う直前までは、彼女は写真を学んでいた。だが、アクセルと付き合っている間に写真からは離れたようだ。アクセルと参加したパーティで彼女は何をしているかを訊かれ、ためらいながら「本屋でバイト」と答えている。おそらく、せっかく始めた写真をやめてしまったことへの罪悪感からだろう。そしてユリヤは、死を間近にしたアクセルを撮影することで写真を再開する。ここまで彼女が写真を撮っているシーンはなかった)
他人は、「どうせ写真家を目指すのなら、もっと早く、その道を選べばよかったのに」とか言いがちだ。
でも、人は神様じゃないんだから、未来のことなんか分からない。だから、いつも人は迷いながら生きる。判断ミスをしたり、他人に流されたりして、選択を失敗することだってある(アクセルと別れ話をしているとき、彼女は雰囲気に流され彼とセックスしてしまうが、終盤の病院では、求めるアクセルの手を払いのけている。こうした対比も上手い)。
でも彼女はいつだって自分が信じる道を選んできた。彼女にとって選択してきたことは、すべてが、そのときどきで「必要なこと」だと言えるのだ。
だから彼女は、ラスト近く、偶然目撃したアイヴィンが結婚していて、子どもがいたとしても温かい眼差しで、その光景を見ることが出来る。
ラストでは、彼女は好きな写真を仕事にして生きている。だが、本作は、そこに至るプロセスは描かず、一見、遠回りしたようにも見える道筋を描く。
ということは、本作のメッセージは遠回りの肯定だろう。いや、人生に遠回りなんてない、とまでユリヤは言っているかも知れない。わたしを見て、そもそも、最短距離を行くなんてムリなんだから、と。
人生に失敗は付きもので、僕たちはとかく悔やんだり、悲しんだりしがちである。
でもユリヤは、そんな僕たちのことをどこまでも肯定し、背中を押してくれるようだ。
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