たかが世界の終わり(2016)

劇場公開日:

たかが世界の終わり(2016)

解説

「Mommy マミー」「わたしはロランス」などで高い評価を受けるカナダの若手監督グザビエ・ドランが、「エディット・ピアフ 愛の讃歌」のマリオン・コティヤール、「アデル、ブルーは熱い色」のレア・セドゥ、「ハンニバル・ライジング」のギャスパー・ウリエルらフランス映画界を代表する実力派キャスト共演で撮りあげた人間ドラマ。劇作家ジャン=リュック・ラガルスの舞台劇「まさに世界の終わり」を原作に、自分の死期が近いことを伝えるため12年ぶりに帰郷した若手作家の苦悩と家族の葛藤や愛を描き、第69回カンヌ国際映画祭でグランプリに輝いた。若手作家のルイは自分がもうすぐ死ぬことを知らせるため、長らく疎遠にしていた母や兄夫婦、妹が暮らす故郷へ帰ってくる。しかし家族と他愛のない会話を交わすうちに、告白するタイミングを失ってしまい……。

2016年製作/99分/PG12/カナダ・フランス合作
原題:Juste la fin du monde
配給:ギャガ
劇場公開日:2017年2月11日

スタッフ・キャスト

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受賞歴

第69回 カンヌ国際映画祭(2016年)

受賞

コンペティション部門
グランプリ グザビエ・ドラン

出品

コンペティション部門
出品作品 グザビエ・ドラン
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(C)Shayne Laverdiere, Sons of Manual

映画レビュー

3.5家族の剝き出しの感情

2023年11月22日
PCから投稿
鑑賞方法:VOD

ほぼ家の中だけで話が展開する。家族同士の会話で成り立っているような作品で、役者陣は表情での演技がメイン。ドラン監督の作品はいつもそうなんだけど、特にこの作品は登場人物一人一人の感情がダイレクトにこちらにぶつかって来る度合いが高くって、正直観ていて疲れた。兄が他の家族に自分の人生のイライラだったり嫉妬だったりをぶつけて罵倒してる姿はほんと「もうやめて!」って思ったけど、それだけ迫真の演技だったのは間違いない。個人的には、幸せな家族よりもこんな家族の方が世の中には多いんじゃないかと思うので、ウソがない映画だなと思ったし、現実味がある分人間性の本質がよく表現されているなあと思った。最後テーブルの下でつないでいた手は誰と誰の手なのか?座席の配置と兄の顔の向きが合ってないような気がしたんだけど、あれはわざとそういう演出なのだろうか。

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Ran

4.0家は救いの港じゃない

2023年11月14日
PCから投稿
鑑賞方法:DVD/BD

愛しているのに分かりあうことが上手くできない、そんな家族の物語。
OPカミーユの歌から凄くて、その歌詞もそのまま全てを示唆していました。
また音楽も絶妙で、グザヴィエのセンスの良さがみられます。
とにかくキャストが凄くて、フランスを代表する顔ぶれでしょう。
その家族の内面を覗きにいくようなカットや、溢れて止まらない会話の数々。
あまり意味のないような会話だけど、そこに何かを探っているようなもどかしさもみられました。
そして皆、病というか家族でいられる時間が残り少ない事をわかっているんでしょうね。だから口から出る言葉も何処かむき身。
皆演技が素晴らしく、一番は言葉より雄弁な皆の表情ですね。
手を握った時のあの時間。そのカットに映る皆の顔はすごかったです。
そして最後は自分自身そのままのような小鳥。
家に帰り、傷つけ傷つき、そして果てる。

家は救いの港じゃない…
深く刺さる言葉でした。

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白波

1.0映像は綺麗だけど…

2023年2月27日
iPhoneアプリから投稿

何が言いたい映画なのかさっぱりわからなかった。

説明されないまま進んでいき、そのまま終わった。

マリオンコティヤールの表情や声の発し方、ギャスパーウリエルもただずまいがすごいなと思った。

12年前何があったの?
なんでこんなにギクシャクしてるの?
最後の方の「手」は誰のなんだろう。

兄が老けてるから最初は兄じゃなくて父なのかと思ってた。

意味不明な会話や怒鳴り合いの連続で、まだ終わんないのかなーとずーっと思ってた。

ドラン監督はあまり説明してくれない作品が多いけど、
わからなすぎて物語に没頭できなかった。

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くー

4.0ぜんぶあっぷです

2022年3月28日
PCから投稿

ヘンな感覚の映画だった。

とりあえず内容を置いても、見え方(撮影方法)からして、顔のアップでずっともっていくので、世界がとらえられなかった。

(常に顔のアップなので)住居や調度や昼夜や体型や姿勢や各々の位置情報や食事の内容がわからない。くわえて単焦点(背景がボケるカメラ)なので、なおさら世界がわからない。

が、わからないのでかえって普遍性があった。普遍性とは、固有の家族を描いている──のではなく、いわゆる「家族」の有り様が描かれている気配──があった。

ところがその家族は全員がさいしょからすさまじいわだかまりをもっていた。
ぎこちなく、疑心暗鬼で、帰省したルイのきもちをさぐっていた。

それが、なぜなのかわからない。ずっとわからなかった。

IMDBの映画の概要をつたえる欄に『末期の作家であるルイ(ギャスパー・ウリエル)は、久しぶりに家に帰り、家族に死にかけていることを伝えました。』とあったので、そうなのか──と思ったが、映画内にはルイが末期であることも、家族に死にかけていることを伝えるばめんもなかった。(と思う。)

映画内には、すさまじいわだかまりを持ってしまった家族が、いがみ合っているところ、しか描かれていなかった。

だが、その様子は、なんとなく滑稽でもあった。
笑える要素はまったくない映画だが、そこはかとないユーモアがあった。
なにより映画はおもしろかった。

日本映画で、技量や社会体験が未熟なため、よくわからない映画がある。その種の暗愚をこの映画には感じなかった。

グザヴィエドランといえば天才肌の監督だった。ここで使っている天才は日本映画界で使われるクオート付の(マスコミ称や自称の)天才とはちがう。ほんものの天才だった。

キャリアのさいしょから母親を描いてきた。J'ai tué ma mère(2009)やMommy(2014)で母親像と家族のなかにいる自分自身を描いてきた。

そのすぐれた観察力を本編でも感じた。母も兄も妹も兄嫁も、ルイにたいして依怙地になっている理由がわからないのに、なぜか家族らしさがあった。

役者の巧さもあった。コティヤールもセドゥもカッセルも迫真だった。ナタリーバイの厚化粧は妖怪人間ベラのようだった。

とくに妹セドゥと兄嫁コティヤールが巧かった。センスのない両肩タトゥも「地元に残った妹」の雰囲気をだしていた。

ルイと妹シュザンヌ(セドゥ)が話しているとき、妹は頻りにたばこを吸っていた。あまり記憶がない幼少のとき出ていった兄、社会で成功した兄──にたいするポーズや照れが現れていた。

ちょっとした気づきだが、そのシーンで単焦点になるところがあった。背景でセドゥが全裸になって着替える。その様子はぼけて見えないが妹は頓着せずに着替えた。

個人てきにこのシーンが気になった。

なぜかというと日本では裸をトクベツなものとしてとらえる。なんとなく撮ったり、たまたま映ったようには撮らない。日本では(女の)裸に神格や娯楽要素を置く。
が、フランス/カナダのグザヴィエドランは大人かつゲイなので、裸をトクベツ視していなかった。

だから「兄のまえで躊躇せずに全裸になって着替える妹」(しかもそれがボケて見えない)の描写は、われわれ(日本人)から想像もできないほどの大人な社会に見えた。のだった。

ただしこのシーンはルイがゲイであり、妹がそれを知っていることを示唆していた。と思われる。ルイの病がHIVだということもなんとなく暗示していた。のではなかろうか。(じっさいのところはわからないが。)

(またルイのゲイはさいしょの兄嫁との会話で「あなたもいずれ子供をもつ」と兄嫁が言ったときに兄アントワーヌ(カッセル)が苛立ったところと、思い出のカットシーンで、なんとなく把捉できる。と思われる。)

映画は、憎しみを前面に押し出していながら、むしろ家族愛を語っていた。
またわれわれ(日本人)の世界にはないアンニュイがあった。

この年(2016)のカンヌで、パルムドール(第一位)はケンローチのわたしは、ダニエル・ブレイクへ行ったがグランプリ(第二位)をこれがとった。

なおルイ役ギャスパー・ウリエルは夭逝した。
『2022年1月18日、フランス・サヴォワ県のスキー場でスキー中の衝突事故に遭いグルノーブルの病院に搬送されたが、翌19日に死去。37歳没。』
(ウィキペディア、ギャスパー・ウリエルより)

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津次郎
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