シン・エヴァンゲリオン劇場版のレビュー・感想・評価
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まごころの苦しみやQに残したトラウマと決別した作品でした。
まごころを君にを見た時のトラウマと救いのない結末に心の傷を持ちながらQまで見た世代です。
Qを見終え、シンエヴァの公開の時、自分は楽しみというよりまごころを君に登場しまシンジ君と同じ鬱な感情になっていました。
世界が滅び、生き延びた仲間からも冷たい目線や態度、心の拠り所のカオル君もいなくなり、仮に勝てたとしてもこんな世界じゃ何も何も戻ったりも得たりもしない。
だからみんな死んでしえばいいという感情がでて今度こそ、まごころと同じめちゃくちゃになってしまえばいいと思っていました。
そうした感情の中、映画を見にいきました。
見終えた時、そうした感情や苦しみから解放されました。
第三村で小さくても強く生きてる人たち、旧エヴァでそばにいてくれなかった友達やアスカやレイの支え、ミサトさんと大人になれたシンジとの会話を見ているうちにみんないなくなれからみんな好きだからいて欲しいという気持ちになりました。後、アスカの裸体を見てもシンジは反応しなかったり、赤木博士の絶望のリセットから希望のコンティニューを選ぶ宣言など、まごころのオマージュもありながらも完全に違うという意思を感じました。
巨大レイが現れた時もトラウマから決着をつける時が来たと完全に向き合えるようになりました。
その後、エヴァ作品の心残りであった父との本当の和解やエヴァのパイロットの卒業を進めてくれてありがとうと思いました。
ゲンドウと直接和解でき、レイやカオルも一人の人として生きていこうと前に押してくれた事、そしてアスカと浜辺のシーンの時、止まっていた時間が動いてくれたと感じました。
二人とも想いを伝え、そして心の拠り所に帰ってくれた事。
青い地球で巨大レイやインフィニティが崩れた時、そこから人が出てきて戻ってくれた時、やっと、やっと呪いやトラウマから決別できたと泣きました。
ありがとう全てのエヴァンゲリオン。そしてさようなら全てのエヴァンゲリオン
難しいことはわからないけど
エヴァは難しい。
アニメからこれまでの劇場版に至るまで
一応全て観たけど、やっぱり難しい。
でも、今回のシンエヴァで
碇親子の心が通じ合えた。
それだけで見た甲斐があった。
アスカは死んだのかどうかわからないけど、アスカの願いは叶ったのだと思う。
登場人物たちの想いが報われたようなそんな作品だった。
この作品にたどり着くまでのアニメから始まるエヴァ作品たちだったと思う。
庵野監督お疲れ様でした。
本当に面白かったです。
お疲れ様でした
なぜ音符のリピート符号が使われているのか?旧作との関係性は?などなど、
様々な憶測を呼びましたが、雰囲気で観るのがジャストだと思ってます。
すごいと思うのは、
シン・ゴジラを一回やってるから「シン」という枕言葉に違和感がなくなってること。
旧作の最後では、アニメの間に「実写」が挟まれて、映画館を鑑賞している人たちが映されました。
あれは、オタクを家から外に出させたくて挟んだカットだった。あの後、本当に凄いことになったよね。
今回もやっぱりありました。シンジくんを引っ張って、走って連れ出すシーン。やっぱり実写になりましたね。
それで満足。
本編の内容に少し触れると
・この世界は神話の通り、神様が作ったもの
・神様が使徒を作った
・アダムだけが知恵の実を食べた
・他の使徒は生命の実を食べた
・アダムと他の使徒が交わるとインパクトが起こる
・完全な生命の誕生
・だから、向かってくる他の使徒は全て殲滅した
・碇ゲンドウは、それを利用して世界を変えたい
・魂(知識)を具現化(生命)したい
・使徒のクローン(エヴァ)は、インパクトを思うがままに操る唯一の鍵。中に乗れば、思い通り。
・交わるためには使徒の魂を守るATフィールド(心の壁)を解放する必要がある
・解放するための道具が、槍
・槍を使って「海」と「大地」を変えるインパクトは起こした
・あとは鍵を強制起動して、最後のインパクトを起こし、魂の世界を作り替えるだけ
ちなみに槍の名前は、皇帝シーザーを背中から刺した、歴史に載ってる「ガイウス・カシウス・ロンギヌス」さんから取ったと思われる。
ガイウスの槍 :外圧。原作者の槍。バッドエンドにしたくない時に登場する。
カシウスの槍 :希望。作り出す槍。
ロンギヌスの槍 :絶望。神殺しの槍。
で結局、オヤジ(碇ゲンドウ)は、外圧(槍)に妨害されて、碇シンジが代わりにネオンジェネシス(新世界)を創造したのでした。今回はハッピーエンド。
映像美伴う重層的な物語の魅力と、庵野秀明の作家性とエンタテインメントの共存
ラストシーン、シンジとマリが手を取り合って宇部新川駅の階段を駆け上がると共に主題歌One last kissのイントロが始まり、宇多田ヒカリの歌声と宇部新川駅の実写、そして駅の俯瞰、宇部市全景が重なっていく映像は、意外性も有り、映像と音楽の美しい調和からか、涙が出るほど感動させられた。続いてクレジット時で流れたbeatiful worldも目新しい美しいアレンジで、長かった本シリーズ全体が見事に終わったことを告げ、感傷をもたらした。
TVシリーズの様に、完結回のはずの今回も謎解き無くして終わってしまうのではと危惧していたが、そうでなく、ほぼきっちりと説明を完了させていたことには感心。えてして謎解きの回はつまらなくなるものであるが、一つの映画として、しっかりと見せ場を作っていたことはお見事。
特に、シンジの心の癒し・再生プロセス、綾波そっくりさん、アスカ、トウジにケンスケ等に助けられながら回復していく様は、時間経過示す静止画利用やショッキングなそっくりさんの死も有り印象に残った。
アスカの使徒化はアイマスクから予想されたと言え映像的には迫力有り、何よりシンジがレイやアスカではなくマリとパートナーになるのは驚かされた。冬月はマリをイスカリオテのマリアと呼んでいた。学生時代らしい写真も挿入されていた。冬月、シンジの父母ゲンドウ・ユイと一緒に写っていたのがマリで、ゲンドウ達から見たら裏切り者で、マリアと言うからにはシンジの守護神、母そして妻的な存在か?
後半、アスカ、カオル、レイの魂の救済がシンジによりなされる。シンジは言わばこの物語では救世主的な存在らしい。マリと結ばれるのも予定調和、必然ということか。
何故、エヴァンゲリオンは自分をこんなに夢中にさせたのか?まず、ビル群や戦艦の大砲等メカニック人工的なものを斬新に美しく切り取った画像がある。今回も真っ赤な廃橋の映像、多分シンジの心象風景でもあるが、に魅せられてしまった。そして、ミサト、レイ、アスカ、マリとタイプの異なる魅力的なヒロインキャラクターの存在がある。彼女らは昔好きになった何人かのヒト達を思い出させる。
加えて、幾つかの謎解きの面白さ、今回も改めて古い歌を口ずさむマリが何者かが、暗示されるかたちで示されていた。冬月が爆死も含めてなお自分的には謎残ってるが。更に、重層的な構造、即ちウルトラマン及びガンダム的活劇、青春恋愛ドラマ、救世主により世界が救われる神話的物語、無気力だった少年が責任を自覚し大人になっていくドラマ、独りぼっちの少女が自分の居場所を見つけるドラマ、そしてミュージカル的要素。それらをトータルで捉えた同時代的感性がたまらなく好きであった。
今回、ラストは庵野秀明の生まれ故郷の宇部市で終わる。最初の原画も提示され、この物語が庵野の超個人的な、言わば私小説なものであることが暗示される。孤独を感じさせるシンジ、ゲンドウ、カオルは庵野の分身か。そして、女性達は好意を寄せた人達、マリは現在の奥様か。クレジットで分かるあれだけの大集団の製作によるエンタテインメントで有りながら、同時に作家性が満点のエヴァンゲリオン映画、長い間本当に楽しませていただいた。感謝するとともに、どうしても新しい映画の創造に大いに期待してしまう。
段々と雑に
アマプラで鑑賞、前半部分は凄い綺麗な
背景と、NHK朝ドラ風物語は良かったのですが・・・
後半、cg、実写の合成、物語、全てが雑に見えます
未完成っぽく感じました
前半のクオリティで後半、もやってくれたら
良かった
一番の売りの、使徒のデザインが
一つも良くなかった
完結
謎が残ったままとか自分では理解しきれなかった部分もありましたが前作に続き戦闘シーンは迫力満点で物語も堪能できました。
TV版とかまごごろを君にを彷彿させる演出もあって懐かしくも新しく、もう少し説明や細かく描いて欲しいところもありましたが、それでも2時間半ぐらいあるので削ってるんだと思うんですよね。
印象に残ってるのはアスカの使徒化と一番好きだったシーンは、帽子を脱いでいつもの髪型に戻ったミサトさんが単身特攻して槍を届けようとする姿、ここはカッコ良かった。
最後、色々解決していったんだけど成長したシンジは緒方さんであって欲しかったかな
これで完結で庵野さんがエヴァを手がける事は多分ないと思うんだけど、描かれてなかった部分や新たな世界も創り出せそうな要素もあるので別の可能性も観てみたいと思いましたが、ひとまずお疲れ様でしたと伝えたい
バッドエンドは嫌だったしハッピーエンドは安っぽかっただろうし最善解としての「オープンエンド」
1995年から2021年へ。
「みんな消えちゃえ!」から、「うん、行こう。」まで。
オープンエンドクエスチョンは、あなたならどう考える? という問いの形式を指す言葉だ。
これに対して、イエスかノーかの質問はクローズエンドクエスションという。
「めでたしめでたしハッピー!」と言われるよりも、
「げちょグロスプラッタああ可哀想でしたねはい終わり」と言われるよりも、
「彼らはアニメさえ抜け出て、ここから走り出した。さあ、あなたはどう思う?」と言われた方が、
26年の付き合いの作品の締めくくりとしては、相応しかった。
最高の終わり方だったと思っている。
1995年は、廃墟と、精神世界と、メカニックと、近未来と、散りばめられた憧れをくすぐる贅沢品と、カッコイイセリフが、「エヴァンゲリオン」だった。
普通のアニメなら事件や事故やミッションや冒険がテーマであり、
財宝を手に入れるためにどうするか、というのが会話の中心になる。
だがしかし、エヴァは違う。
人格未形成、情緒不安定な人物に、精神的な葛藤を、
ここまで登場人物に喋らせたアニメ作品が、あっただろうか。
そのどうしようもない鬱々とした承認欲求は、
人類を救うという一大ミッションよりも前面に押し出され、ぐいぐいと迫ってくる。
ミッション以前の前提問題として生存権がぐらついているのだ。
「僕を見て!僕を殺さないで!」
「あたしを見て!あたしを殺さないで!」
しみじみ、シンジもアスカもレイも、みんなかわいそうである。
奴隷制度や残虐な牢獄脱出の物語ではないのに、
生存と存在の承認欲求を叫ばなければやってられない状況に陥っている登場人物が、
かつて、いただろうか。
だが、それが見事に刺さった。現代社会の暗い影を、浮き彫りにするかのように。
SNS全盛期のずっと前に、承認欲求を、斬新なデザインと、盛り上がる音楽で吐露するのが、
格好良かった。新しかった。
人間はどす黒いことを思うものなのだ。
孤独や息苦しさを形にしてもいいんだ。
高度な専門家たちの頭脳ゲーム。
物憂げで悟りつつも、生に苦悶する子供たち。
いつ使徒に襲われて崩壊するか分からないのに、惰性で続けられる学校ごっこ、家族ごっこ、仮初めの日常生活。
斜に構えた物憂げなフランス映画に、原色で彩られた現代アートを混ぜたような作品。
一つの画期的な作品が突破したボーダーラインの先には、後続が続いていく。
セカイ系、病んだ精神の吐露系の、その元祖のようなエヴァンゲリオン。
その本家が、終劇を迎える。
スターウォーズやガンダムは歴史書が書けるほど分厚いが、同様に、
エヴァンゲリオンはオマージュとメタファーと緻密な設計図のミルフィーユが分厚い。
分厚い作品は、類似品のような薄っぺらさにはならない。
薄っぺらくない根拠は、私のような視聴者が、その分厚い橋の上に立って、そこからの眺めをこうして語りたくなっているから。
良い作品とは、それが橋や船や氷山にまで膨れ上がり、無数の人々をその上に乗せ、そこからの眺めを人々に語らせてしまうものだと、定義できると思っている。
その終劇。
その終劇は、昭和ノスタルジー村で、古い家具に囲まれて、田植えをして、粗食をして、風呂に入り、赤ん坊を可愛がり、お母さんが息子に謝るのである。
・・・どう解釈したらいいのだろう?
正直、二通りの感想を持った。
一つ目は、作者の加齢による穏健化。老後ノスタルジー。
だが、それは、あまりにも、創作者の創造性と知性を軽んじる行為だろう。
創作者の趣味に還元できる程度のものは、アマチュアの趣味作品だ。
だからこそ、アマチュアの趣味作品は、薄っぺらい。
もし、薄っぺらいのなら、その上にこれだけの大勢の人間の感想を載せることは出来ないはずだ。
このサイトだけで、もう900人以上が書いている。
それに、ノスタルジーは別に悪いことではない。
作者が作者自身を回復させるために、真実だと思ったことを描き切る。
その真正が、他の人間を触発する。それも作品のメカニズムとして真っ当だと思う。
だが、そう思う反面、それを、エヴァンゲリオンで、認めたくない気持ちも強くある。
自分でも、なぜ、認めたくないのかが分からない。
なぜだろう。戸惑う。
だって、エヴァが田舎のほのぼの生活を肯定しているのだ。
どうしよう。どうしたらいいだろう。
「田舎のほのぼのスローライフこそ人間の本当の生活だよね」ということか?
いやいや、いやいや、そんな。
その日常生活のなかで沈殿してしまう負の感情を解放してくれるのがアニメじゃなかったのか。
その習慣の惰性のなかで圧迫されてしまう個人の心の機微を掬い取ってくれるのがエヴァじゃなかったのか。
ニアセカンドインパクトからの復興。
回復と前進。生命の前向きな肯定。
魂の回復。
地に足を付けた生活。
他人との会話。
その重要性は分かる。
だけど、とんがっているのがエヴァだったのに。
オシャレクール、退廃的な悪い大人と成長痛に苦しむ子供がエヴァだったのに。
いや、だがしかし、とんがり続けて、大人になれず、十五の夜を繰り返し続けているから碇シンジは不毛だったんじゃないか。
「みんな酷いよ」
「もうほっといてよ!」
いや、さすがにそろそろ、ちゃんと生きようよ。
いじけているだけの背中を26年見せられて、こっちはいったいどうしたらいいんだ。
そう思っていたのも事実である。
昔のとんがったエヴァらしさを、最後まで全員が、十字架のように負わされてしまったら良かったというのか?
いや、そうではないはずだ。
そもそも、論点の立て方がおかしいのかもしれない。
「田舎暮らし」にフォーカスを当てるから、もやもやするのだ。
そもそも、第3村は、「田舎暮らし称賛風人生の楽園」ではないはずだ。
誰も選択したわけではない。
災害に追いやられて、あそこに流れ着いたのだ。
あれは、復興途上の避難した人々の希望の灯を絶やさない生活であって。
そのかけがえのない慎ましい生活すらも奪おうとしている対人恐怖症患者が碇ゲンドウなのであって。
誰もあの自給自足生活を選択したわけではないのだ。文明の利器と、人類の叡智の蓄積と、他の共同体との物品交換を、信念で拒否しているわけではない。
いや、村のみんなや、村の暮らしに意識を引き摺られ過ぎているのかもしれない。
それほど、エヴァンゲリオンの中での村暮らしは衝撃的だったのだ。
ほのぼのムービーをエヴァンゲリオンで見るなんて。
だが、あくまでも、登場人物一人一人の精神世界にフォーカスするのが、エヴァンゲリオンの醍醐味のはずだ。
だから、登場人物一人一人を見ていく方が、このもやもやとする感想の核心に近づけるのではないか。
綾波レイ。
一世を風靡した薄幸の美少女。
彼女が、生活を教わった。
それは本当に良かったと思う。
おはよう、おやすみ、ありがとう、さよなら。
他人の幸いを願うおまじない。
おはよう、今日も一緒に生きていくためのおまじない。
おやすみ、安心して眠れるおまじない。
さよなら、また会うためのおまじない。
教えて貰えて良かったね。心からそう思える。
式波・アスカ・ラングレー。
勝気な態度で心を守りながら、懸命に生きる美少女。
現実から逃げないその態度は、クローンのため非現実的で、浮世離れした人形のような綾波レイとは別種の美しさがある。
アスカはいつも頑張っていて、偉かった。
彼女は最後の最後まで、とんがった側に置かれていた。
アスカは、いつも、苦労のし通しである。
むしろ、作者の信頼なのだろうか。アスカなら、どれほどボロボロになっても、折れずに居てくれる。
最終作では食べ物も食べられず、眠ることも出来ず、
クローン人間として、人間の頃には持っていた羞恥心や葛藤や個性を失って生きている。
口に押し込む形ではあったけれど、シンジに食事を食べさせたことは称賛に値する。
前作であれだけ止めたのに無視をして暴走したシンジを見捨てていない。
他人の世話を焼いているのだ。他人を気にかけているのだ。
このエヴァンゲリオンの世界で、他人を配慮する余裕のある人間が、一体、何人いただろうか。
みんな自分でいっぱいいっぱいの、追いつめられた人たちだった。
アスカは、あれほど苦しめられた自分のエゴやプライドを守る必要もなくなって、
妙に清々して見える。
そして、大人になった相田ケンスケという理解者を得られたこと。
心の対話相手である、赤い手作りの人形を、ケンスケが着ていたこと。
苦しみ続けて「気持ち悪い」と言いながらも、いつも最後まで戦っていたアスカに、帰る場所が出来たこと。
それは本当に良かった。
シンジがアスカを真っ先に救い出して、マリに祝福されて、ケンスケのもとへ送り還される。
真希波・マリ・イラストリアス。
テレビからの愛着のある登場人物と比べれば、
ぽっと出で、余所者で、傍観者で、第三者の真希波マリ。
だからこそ、ストーリーテラーとして、進行役としての役割を、外部者として担うことが出来る。
シンジは最後、マリと手を取り合って、マリを先導する形で、自分の意志で、あのシンジが積極的に、走り出すのである。
現代社会の、それも地方都市の、なにげない小さな駅から、二人は生き生きと颯爽と前に向かって走り出す。
彼らはこれから、名もない二人の市民として、生きていくのだろう。
華やかなパリや東京ではなく。勝ち組や出世や富裕層や社会的地位や難解な職務などではなく。
彼らが幸福な人生を暮らすのに必要なものは、外部要因ではない。
自分を幸福にするのは、自分が未来へと前進してもいいのだという、自己肯定感のある自分の認識だ。
所詮、世界とは自己の認識の総体なのだから。
それをかれらは26年掛けて学び尽くした。死線を搔い潜りながら、いやというほどに。
それは、奇しくも。
人類補完計画と同じゴールでさえあると私は思う。
ゲンドウは言った。
「他人との差異が無く、貧富も差別も争いも虐待も苦痛も悲しみもない。浄化された魂だけの世界。」
それは、自分と大切な人を愛する人生でも、実現できるのである。
貧富や差別や争いや苦痛や悲しみとは、話し合い、毅然として、戦う。
やめてほしい、それはちがうと、言い続ける。
そして、時には、逃げてもいい。
傷つき、血を流しうろたえる子供としてだけではなく。
大人として、向かい合う。
それこそが、ゲンドウが出来なかった、すぐそばの自己補完計画と言えるだろう。
マリの話に戻ろう。
マリは、イスカリオテのマリアと呼ばれる。
イスカリオテのユダは、十二使徒の「裏切り者」の代名詞だが、恐怖に負ける弱くて完璧ではない人間、愛しすぎた果てに憎しみに転化してしまう人間の象徴として、奥が深い存在だ。
マグダラのマリアは、イエスの死と復活を見届ける証人。罪深い女。改悛した女。さまざまな解釈が錯綜する存在だ。最後まで、イエスであるシンジ(神児)に付き添う。母でも恋人でもない女。
葛城ミサト。
誰もが大人になったけれど、
彼女は本物の、碇シンジを信じる、碇シンジの保護者になっていた。
彼女に潜む、不安定な影は、すっかり消えていた。
赤木リツコ。
中二還りしたゲンドウ氏に幸せの形が見えていないなどと物凄く余計なお世話なことを言われていたが。
はっきりと言える。
「ゲンドウ君、私が持っていてあなたにはない、信頼された仲間と人生の楽しみと人間としての生活を総称して、幸せと呼ぶのよ。」とでも、言ってやって欲しかったです。
「私があなたと知り合えたことを
私があなたを愛していたことを
死ぬまで死ぬまで
誇りにしたいから」
挿入歌「VOYAGER〜日付のない墓標(林原めぐみ/原作:松任谷由実)」の文句通りに。
文句のつけようのない大団円だったと思います。
すべてのエヴァンゲリオンに夢中になった皆さん、お疲れさまでした。
登場人物たちの魂の浄化と新世紀創造
今まで(特にQ)と比べて、説明的な台詞が多く圧倒的に親切な作り、どうしちゃったの?
まぁ、それでも理解できない部分は多々ありましたけど。
物語の根幹にある人類補完計画を遂行する碇ゲンドウの、本当の目的は私欲の為ってのが萎えます。
要約すると、
こじらせ厨二病親子が理解し合うまでを、ややこしくも壮大に描いた稀代のエンターテイメント。
そんな感じ?
シンジによって登場人物それぞれの魂が浄化され(なんとなくスッキリ)、新世紀が創造された、のかな?
その新世紀が、
エヴァ後の世界なのか、シンジとマリ以外はエヴァ世界の記憶の無いパラレルワールドなのか、
その辺は考察が楽しめそう。
マリが、ゲンドウとユイを引き合わせたような描写があったりとか、映画版のポッと出のくせに(失礼!)、なんだか重要なキーマン的な余韻を残してるんだよなぁ。
上映時間も長く途中で飽きたけど、
コアなファンでは無いけれどTV版からすべて付き合ってきたので、完結にはグッとくるものはありました。
ゲンドウのエゴ
シン・ヱヴァンゲリヲン劇場版:IIを観て、不安感とちょっとした寂しさを覚えた。
一言で言うと「ゲンドウのエゴ」の物語。
人と触れ合うことが苦手で、ピアノ好き。
ユイに出会った彼は彼女のお陰で変われた。
そんなユイがヱヴァンゲリヲンに取り込まれてしまう。NERVを利用して彼の計画が始まる。そう、もう一度ユイに会う‥。
彼の性格から使える物は人だろうが物だろうが使い、不必要となれば捨てる。そうしなが計画を実行し、目的を果たす。そうユイとの再会の為に。
これが人類補完計画と名を打ったゲンドウの計画。シンジを呼んだ時には、既に計画は動いていた。
「親のエゴ」は日常茶飯に存在する。
時にそれは子供の性格や心の病気に影響する。ヱヴァの近くにも存在するのかもしれません。
エゴイズム。それは人類を滅亡させる力を持っている、そんな語りを聞いている様だった。
残念
シンジが初号機で大暴れするっていうのを観たかったんだよね。
そもそも、
ひ弱な少年がエヴァという強大な力を得るけど、まわりにああだこうだ言われて悩んで、それでも自分の居場所のためだったり大切な人に気付いたりして戦うってところに共感してたから、最後にはその強大な力を思う存分発揮して欲しかったね。
リアルタイム世代にとっては大きなカタルシス。成長と回復の物語
テレビ放送をリアルタイムで見て(私も14歳だった)、新旧劇場版も全て見ていますが、見終わって幸せな気持ちになるのは、シリーズで初めてじゃないだろうか!?
全体を一言で言えば、
「成長と回復の物語」
『やっと。。。やっと、ここまでこれた。。。(涙)』という感じ。
新劇場版シリーズ(序・破・Q)は、正直な感想としては、あまり面白いとは思っていなかった。
【序】
テレビ版とほぼ同じ構成。
絵が綺麗になったり、演出が良くなったりしてはいるが、テレビ版と旧劇場版をリアルタイムで見て、ドップリはまった者としてはモノ足りない。
【破】
「普通」の秀作アニメ。
世の中ではとても面白いと絶賛する意見も多かった。
でもリアルタイムでどっぷりはまった人間からすると、「なんか違う感」、「心に刺さらない感」が非常に大きい。
ロボットと怪獣を舞台装置とした、ほぼ普通の秀作青春ドラマ。
「登場人物の心の深い部分に沈んでいく」ような、「自分の心を凝視する」ような、そういう成分が少なかった。
テレビ版が、【破】のようなストーリー展開だったら、おそらく出来の良い普通のアニメ止まりで、社会現象にはならなかっただろう。
【Q】
「難解さ」は戻ってきた(笑)。観客おいてけぼり感が大きい。
ストーリー上の細かい設定や難解かつ意味深な独自用語は、物語世界に重厚さを与えていた。また物語世界の全体を見渡すことを難しくし、ミステリアスさが生まれ、観る者の好奇心を煽った。
これらはすごく重要な要素だった。
が、それが本質かというと、違うと思う。
それほど優れた作品とは言えなかったと思う。
【シン】
とても良かった・・・。
おそらく、私のようなリアルタイム世代にとって、大きなカタルシスとなるものだと思う。
当時14歳だった主人公とその周辺人物の(そして、当時これに深くはまった人たちの約25年間の)「成長と回復の物語」と言っていい。
だって例えば、旧劇場版のクライマックスで挿入される曲「Komm, süsser Tod ~甘き死よ、来たれ~」の歌詞と、シンの終盤を比べてみてよ。。。(感涙)
拒絶から受容へ、対立から共感へ、依存から自立へ
ラストシーン
マリ『さぁ、行こう!シンジ君』
シンジ『うん、行こう!』
とシンジが「自発的に」マリの手をとり、マリがそれに驚くシーンに、
そして二人が階段を登って、実写の街に溶け込んでいくシーンに、深い感慨を覚えた古いファンは多いと思う。
25年かかって、やっとここまでこれた。。。
そして、これでエヴァンゲリオンの物語がすべて終わりなのだなと感じた。
見終わった後の気持ちは、劇中のこの台詞がぴったりだと思う。
『さようなら、すべてのエヴァンゲリオン』
終わった
TVアニメをシンジ君と同じ14歳で見てきた僕も40歳になりました。今作を観終わった時、僕の青春がやっと終わったんだな…と思い涙が止まりませんでした。高校生の頃、旧劇場版を観た帰りに友達と「ほぼ総集編じゃん!」と怒った事。社会人になって、新劇場版を観た帰りに「これが観たかったんだよ♪」と興奮した事。中年になり、新劇場版Qを観た帰りに「何でだよ庵野さん!」と怒った事。今までの全ての想いが無駄じゃなかった。全部拾って昇華させてくれた庵野さんや製作陣に感謝しかありません。生きてこの作品の終わりを見届けられた僕は本当に幸運でした。
屁理屈、ご都合主義、楽屋落ち、トラウマ。
何度か観るうちに、段々と違和感を感じてきた。
●「何とかの槍」と繰り返されても、「家は仏教だから」と新興宗教の勧誘を断る感覚。
今どきのエヴァファンには、糞みそに叩かれるだろうが、TV版から観てきた者には、
こんな屁理屈はいらない。「分かってないな」と言われて結構。
ひたすらユイに会いたかった、という感情には共感できるが・・・。
●ヴンダーの各種スイッチは、予め想定されていたの?
そうでなければ短期間に、よく準備できたと感心。都合良すぎない?
そもそも「ヴンダー」は「ブッタ(仏陀」」だと思っていたよ。
キリスト教に対抗する、精神世界の象徴だとね・・・。
●撮影現場、コンテ・・・。各種の楽屋落ちは情けない。
「銀魂」のビデオを思い出した。庵野君、こういうのは止めてくれよ。
(最後の最後は、良かったのに残念。)
●不勉強で、良く知らないのだが、庵野君には、「首無し」のトラウマがあるの?
気持ち悪い。
皮肉ではないが、庵野君。好きなように最後の二作を作れてよかったね。
私としては、序、破の世界を継承した最後が観たかった。
アスカが戦艦(?)を踏みつけたり、戦車部隊が砲撃するようなワクワク感。
哲学アニメが観たかったのじゃない。(初期の頃の後半もカウンセリングアニメだったな。)
子供の感想?O.K.!読みが甘いのなら、いくらでも謝る。
結局、「いままでのエヴァンゲリオン」と冒頭部分が、一番良かった。
次は、「第三村」の描写。
最初に観た時は、感動したが、複数回観たら、ぬるいビールを飲んでいる感覚。
多分、庵野君が描きたかっただろう後半部分にはついていけない。
庵野君。結局、君自身がゲンゾーなんじゃないかな。
それ自体の偉大さ
テレビシリーズをほぼリアルタイムに見てきて、エヴァが終わるというので重い腰を上げて観てました。
内容うんぬんよりも、碇シンジや綾波、アスカが多くの人の心の中に20年以上も生き続けてきたという奇跡を思いました。こんな不思議な奇跡を起こした庵野さんは凄いと内容うんぬんは別として思いました。
「内容うんぬん」については正直、もはやどうでも良いように思いました。
このキャラクターたちが多くの人達の心の中に在り続けた事。心にひっかかり続けた事。
それ自体が偉大すぎて、何をやってもそれ程の意味はないとすら思いました。
結末はハッピーエンドです。
必然性があろうとなかろうと、私たちが顔を上げて生きていくためにハッピーエンドでなくてはならないし、庵野さんはそれに応えてくれました。
世の中はままならないものですから、正直あまいと思いましたが、最後はハッピーエンドである必要がある、そんな映画だと思います。
庵野さん私たちに魅力的なキャラクター達を植え付けてくれてありがとうございます。あなたが作り出した彼ら彼女らは私たちの心に生き続けていきます。おそらく墓場に入るその日まで(!)それは本当に奇跡です。
公開終了間際、観てきました。
良かった。
構造的には旧作の造り替えなんだけど、
下手に旧作との物語としての直接的な関連はなくて新劇場版の世界としてちゃんと独立したストーリーになってたのが良かったです。
だから今作でのアスカはこういう設定なのね、と素直に納得できたし。旧作からのファンに強烈に時間の経過を感じさせていて、そこら辺が感慨深かった。
旧劇場版は最終的には自分と向き合いつつの母親との邂逅なんだけど、今回はそこのリフレインにならないように徹底的にシンジとゲンドウを向き合わせていました。結局今まではっきりとはやってこなかった部分だから長年の心のつっかえが取れました。
旧劇場版でのシンジの心理を開始40分で乗り越えさせて、同じハマり方をしているゲンドウとぶつけるのは良い変化。
実際エヴァに乗る乗らないみたいな部分に関して言えば破で終わらせているので、立ち直りが早かったのもある程度納得できます。
尺の都合で今回も一気に覚悟決まりすぎてる感はあるけど笑
14歳が一気に28歳に成長してましたね。
旧作だとTVも映画もゲンドウの思惑は最終的に一個も達成されていないのですが、今回は多大な温情がかかけられていました。
庵野さんも歳をとったんだな、と思います。もちろんいい意味でね。
むしろ丁寧すぎるぐらい一個一個の物事を説明と消化をしてて、庵野さんにしてはかなり商業的に作ってると感じました。思えば新劇4作は最初から明確にエンターテイメント性を強くしてましたね。
ちょっと残念だったのはエヴァの戦闘シーンが新劇場版で回を重ねるごとに3DCG感が出過ぎてて、ふと冷めちゃう瞬間があるところ。
終盤の背景をわざと特撮セットにしてエヴァ本体の動きのアニメ感の無さを薄めようとしてるんだけど、若干ゲームとかMMD作品見てるようなチープさを感じて笑ってしまいました。
裏宇宙で13号機が待機してる姿がカヲルくん初登場ポーズで、ゲンドウ≒カヲルを印象付ける遊びなんだろうけど、ゲンドウさんそんなポーズします?な部分も地味にツボ。
終盤の連続で槍にブッ刺さるシーンは多分わざと笑わせに来てる。
あと全編通して冬月先生が超人すぎますw
L結界の中で生身でギリギリまで耐えてたのもだし。
Qの時からずっとヴィレの人達が100人単位でなんとかやってる作業を全部一人でやってるよね。
振り返ってみると4作品通して綺麗にまとまってるいい作品でした。と同時に、旧劇場版があれで完璧に完成された作品だったと再認識。
新劇場版はなんとか同じにはしないように頑張った結果、清涼感のある作風になったのかも。
所々に散りばめた旧作っぽい構図は物語上の意味はそんなに無くて、単純にファンサービスなのかな。
なので最後の駅のシーンも漫画版のオマージュでありオマケなんだと思ってます。
マリのモデルは多分やっぱり庵野さんの奥さんなので、そこは自分にサービスしたのかな笑
100億突破おめでとうございます
興行成績が100億を突破したという事で、戦略的に取りにいったのでしょうが、作品としても、事業としても大成功ですね。これで、また素晴らしい庵野作品を見る機会が増えたかと思うと、ワクワクします。
テレビシリーズを再構成し、分かりやすくした事で、あのラストで正解だったんだ、と改めて感じました。
色々な作品のオマージュを感じますが、差し詰め、第3村はジブリのオマージュですかね。宮崎さんが好きそうな原始共産社会は一旦、この文明がリセットされた後なら出来そうです、という事かも知れません。第3村では誰もが仕事を持っていて、シンジ君は最初からエヴァに乗れてしまった天才なのですが、ここでは釣りをやらされます。「大きなカブ」を見ていたせいか、あー、これって、風立ちぬの声優の件かな、なんて想像していました。
他にも色々考えましたが、以下略。素晴らしい作品でした。
悲劇的なラスト
旧劇版の後、離れてましたが、序、破、Qを見てから完結編を見ました。まとめての感想です。
初号機が覚醒したら何故かサードインパクトが起きたり、Qからいきなり別アニメのようなシーンになってたり、シンジは何も悪くないのにクルーから酷い対応をされたり、加持がスーパーマンみたいな役割を生前に果たしてたりするのに違和感を感じましたが、とにかくサード、フォース、アナザー、アディショナルの各インパクトの条件が複雑で訳が分からない、各キャラも正体不明な人物ばかりだし、正直途中から理解しようとする気がなくなってしまった。シンジの成長が物語の本筋というのなら、その視点でもっと描くべきでは。Qと完結編の大部分でシンジは傍観者だった。各キャラの抱えるトラウマや精神の補完がすべて完了してシンジは大人になり、大団円でハッピーエンドという点で大満足な意見も多いのだとは思いますが、現実的には親の説得なんかうまくいかないことが多いものだし、主人公が実質48歳のバアサンを押し付けられるのでは、これはこの上ない悲劇的なバッドエンドだと思います。旧劇版のラストの方が美しかった。
これでお終い?
全部見てきたので惰性で見てきました(^_^;
ごめんなさい。
マニアな方々には色々と伏線回収かなされた様ですが良く分かりませんでした。
シンジが最後生意気になってたのが気に食わなかったです(笑)これってネタバレ?(笑)(笑)
謎は残るが良かったと思えた作品
最初に大まかな感想を述べるとしたら「いやぁ終わったなぁ……良かったなぁ…………えーと、つまりどういうことだってばよ?」という感じだった。
上手く日本語が使えないが以下感想
一応アニメ、貞本エヴァ、ゲーム、旧劇、新劇、パチスロと大体は見てきた。だからこそ今作の終盤は見てて「あのシーンのリメイクか!」という場面がいくつかあった。1例としてゲンドウの旧劇とシンエヴァで共通のセリフがあったのだがそこで旧とシンでゲンドウの結論が変わったのはかなりグッときた。
また、ミサトにも同じものがある。ここは興奮が抑えられないのでネタバレありで書くが旧劇ではミサトはシンジに「いってらっしゃい」と言い送り出し、散った。
それがシンエヴァではシンジと話し、「いってらっしゃい」と言い、シンジは「いってきます」と言った。ここだけで泣いた同士は多いはずだ。多分。ミサトはシンエヴァでも同じく散ってしまうがシンジに世界を託し、2人の母として、美しく散った。泣いてまうやろこんなん。
ここから少し感情的な文が目立つやもしれん。そこは優しい目でスルーして欲しい。
本作のキャッチコピーでもある「さらば、全てのエヴァンゲリオン」だが最後のシーンを見る限り全然サラバしてないエヴァンゲリオンがいるような気がする。
エヴァシリーズや4号機、甲、乙号機達はどこへ行ってしまったのだろうか。
仮にこれが「サラバするのは新劇のエヴァだけです」だったとしても胎動するエヴァ8号機さんはどうなったのだろうか。まぁ話の流れ的にはエヴァ8号機になったと考えるのが妥当だろうが。そこまでのストーリーはどうなったのだろうか。
というか新劇はアニメ版のリメイクのはずだのにジェットアローンがほぼほぼ出ないではないか。いやまぁ新2号機の1部となっていたが。なぜジェットアローンをそのままの姿で戦わせるなり出すなりしてくれなかったのだろうか。尚これは完全なる私怨であり正直完全にスルーで構わない。
最後に、わたしは穏便派LAS厨である。
絶望的な終わり方
自分は2000年ごろエヴァをレンタルで見てハマりました。
エヴァのブームも去った頃で、エヴァについて語る人も周りにいなかったですがそれでも好きでした。
20年好きだったエヴァの一番最後の映画ということで、シンエヴァはとても楽しみにしていました。
ですが、結果は残念極まりなく、
自分はこれを機にオタクをやめようと思いました。
冒頭はエヴァらしい軽快な戦闘シーンで始まります。
ですが、その後の第3村のシーン。
とにかく長い。長すぎる。
黒レイが主役かと思うほど農業のシーンやら子どもをお世話するシーンやら図書館に行くシーンやら風呂に入るシーンやらが続きます。
そして、落ち込んで寝込むシンジ。
とにかく長い。長すぎる。
ずっと寝込んでる。
この時のシンジは失語症になっていたとどこかで見ましたが、映画内で失語症への言及はなかったと思います(2回見ただけなので見落としたかもしれませんが)。
そして、アスカは裸でシンジの前に現れ、それに対し大人になったケンスケがアスカにタオルをかけます。
アスカは何故かケンスケをケンケン呼びです。
男女の関係があることを、さりげなく匂わす演出です。しかし、結局アスカとケンスケが恋人同士であったかは最後まではっきりしませんでした。
何故監督がこのような、ケンスケとアスカがカップルであることを匂わせるような脚本を作ったのか全く理解できません。
加持リョウジという少年がでてきます。
ミサトと加持の息子です。
14歳です。
あれから14年経った世界でミサトの息子が14歳と言うのなら破のラストの時点でミサトのお腹が大きくなっていなければおかしいと思うのですが14歳です。
加持リョウジ少年は良い子そうでした。
しかし、加持リョウジ(親のほう)の去り方は尺の都合なのかあまりにもあっけなく、加持リョウジ(親のほう)の扱いがあまりに雑で可哀想になりました。最後の方でもまた扱いが雑で可哀想になります。
途中の諸々について。
アスカは昔、シンジのことが好きだったと告白に行きます。でも私の方が先に大人になっちゃった、とも告げます。
個人的な意見ですが、『シンジを好きなアスカ』を好きだった私にとってはこのシーンは悲しくも、良いシーンだったと思います。
そのぶん、序盤のケンケンとアスカは、こんなのアスカじゃないと目を覆いたくなりました。
ちなみにアスカの告白の前に、『だーれだ?』とマリがシンジに後ろから目隠しし、『ヒント、乳のでかい、いい女』と言います。
これがまさか最後のクソみたいなエンディングの伏線になるとはこの時思いもしませんでした。
シンジによる補完計画が始まります。
シンジが登場人物ひとりひとりに語りかけます。あなたは本当はこう思ってたんだよね。僕はこう思っていたよと。
この時、唐突に渚司令という存在が加持リョウジ(親のほう)と一緒に出てきます。
渚司令は碇シンジを幸せにすることで自分を幸せにしたかったと言い始めます。加持に対して『カヲルって呼んでよ、リョウちゃん』などと言います。この人は一体誰なんだろうと思いました。
渚カヲルは、使徒であり、
碇シンジのことを好きな少年であったはず。
しかしここに出てきたのは、謎の渚司令という人物でした。
クライマックス。
旧劇に続きまたしても巨大綾波。CG丸出しの巨大綾波。旧劇の巨大綾波の方が美人だったと思います。
首のないマネキンの行進。そして、天から降り注ぐ人々。猫を抱きしめて微笑んでる女性やらなんやら、色々な人間が空から降ってきます。誰なんだよ。
急に駅のホーム。これは庵野監督の地元の駅のホームだそうです。庵野がさっさとエヴァから解放されて実家に帰りてーよアピールなのでしょうか。理由はわかりません。
スーツを着た、社会人らしいシンジっぽい男が、後ろから『だーれだ?』と目隠しされます。
『胸の大きい、良い女』と答えます。
誰なんだよ、お前は。
碇シンジはそんな奴じゃなかっただろう。
そもそも、声、神木隆之介じゃねーか。
26年シンジを演じてきた緒方恵美さんに対して申し訳ないと思わないのか。監督ってきっと、人の心が無いんだね。
そしてもはや面影すらない、薬でもキメてんの?ってくらい目を見開いた大人シンジらしき神木隆之介が、マリの手を取って行こう!と階段を駆け上がります。
そして監督の地元の駅(何故か実写映像)から飛び出すマリとシンジ。
流れ出すエンディングテーマ。
いったいなんだったんだろう。この映画は。
黒レイは農作業を散々させられた挙句、シンジに名前もつけてもらえず、ネルフから離れたら生きられないとかなんとかいう理由で消滅させられ、
ケンスケとアスカはカップルにさせられて、
シンジはマリルートエンドみたいになってて、
いったい何を伝えたかったんでしょうか。
これが、90年代に社会現象を巻き起こしたアニメの最後なのか。
エヴァをずっと好きだった私の気持ちは何だったのか。
極め付けにとどめを刺してきたのは、入場者特典の公式の薄い本でした。
作画監督のとある人物がカヲレイ夫婦と子供のシンジのイラストを描いてネットで大炎上したあげく、
ラジオに出演した緒方恵美さんにこれはあくまで同人誌です、とフォローさせていました。
いや、同人誌って、そんなにポピュラーなものですか?
同人誌ってオタク界隈のみで楽しむ物ですよね?
エヴァって、大人から子供まで楽しめるエンタメみたいなツラしてのさばってるのに、同人誌を入場者特典にしちゃうんですか?
シンエヴァはどうしても100億行きたいのか、舞台挨拶だの入場者特典だの必死にやってますね。最後の悪あがきに。
どうして100億行かないのか、関係者さん、誰もわからないんですか?
この映画が、エヴァオタクにとって期待外れだったから。ただそれだけです。
私は現実に帰ります。もうアニメは一切見ないです。
監督の気分一つで、いくらでもキャラクターの性格が変わるなんて、もうこんな気分は味わいたく無い。
ありがとう。現実に帰してくれて。
一刻も早く、エヴァというクソアニメの存在が消えるくらいの大ヒットアニメが生まれてくれますように。
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