鉄道員(ぽっぽや)のレビュー・感想・評価
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偉大なる映画人たちが遺した功績に思いを馳せる
東映時代の高倉健さんを全盛期とする人もいるだろうが、それ以上に「君よ憤怒の河を渉れ」「八甲田山」「幸福の黄色いハンカチ」以降の、任侠映画のスターからイメージを脱却してからの健さんに、最近は更なる魅力を感じる。「夜叉」も最高に痺れますが、今作も何度だって観てしまう引力が溢れています。今は亡き健さん、降旗康男監督、坂上直プロデューサー、そして今年鬼籍に入られた志村けんさんの姿も確認することができる。ある意味、とても静かな作品だが夢のようなひと時を味わわせてくれる。
北海道の健さんは永遠だ
番外地シリーズに始まり、山田監督との三部作、そして降旗作品とかたり始めるときりがないけど、北海道の厳しくもおおらかな大地と寡黙な健さんの組合せはそれは自分のなかでは絶対だ。やっぱりこのタッグは最高級だなあ。
この作品でも乙松駅長と健さんがオーバーラップして、演じている感じがしないぐらい。改めて凄さを思い知る。
それにしても往ってしまった方ばかり。それだけでなく、この作品で重要な小道具だった牛乳瓶も消えていくらしい。でも映画は記録する。
やっぱりつまらん
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鉄道員の高倉健が若い頃に子供を失った。
そして嫁までも病気で死んで、仕事で死に際にも会えなかった。
らーしむの子を居酒屋の人が引き取って育てたりしつつ、
広末が出て来て、実はそれが死んだ娘だった。
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高倉健が嫌いなわけではないんやが、彼の映画って本当に退屈。
渋い男の役が多いんだか何だかわからんが、とにかく理解しにくい。
この映画も何が何なんやらようわからんかったわ。
ってか、幽霊かよ!ってな突っ込みもあるしね。
しかも何で死んだ人が歳を取って行ってるんだか。
ファンタジーなのか?
ひたむきにと言うが、ただただ鉄道員をやり続ける仕事人間の話になるよね。
降籏監督らしさはあるし良いのだけど、ちょっとそこはどうかなと思う。
雄大な自然、高齢化に伴う廃線。『原野に戻るだけだ』のセリフが刺さる。
最期まで、男の我儘で終わった映画かも知れない。
良い映画だけに、男の自己満足が鼻につく映画だった。
昭和の時代なら面白かったかも
全体に「あ、感動させに来てるな」と思うシーンの連続。
不器用だから、という理由で妻や娘の死に目に立ち会えず黙々と仕事をこなしたり、
家族や友人に自分の感情を表さなかったり、
死んだはずの娘が会いに来たり、
でもそれって他人に伝える努力を放棄してるだけだよね、というのが現在での感想になってしまう。
口に出さないことを美徳としているわりに、「こういうの格好いいでしょ?」と露骨に感動させようとしてくるので後半にはもう食傷気味。
黙々と自分の責務を果たす、という昔のアイコニックな人物像とお涙頂戴のファンタジーを混ぜた映画。この手の話に慣れた世代なら感動できるのかもしれないが、現代においてはかなり厳しい作品という評価。
親父曰く『ぽっぽやは国鉄員に対する蔑称だ』
国鉄は1987年4月に無くなった。
また、蒸気機関車は1982年に無くなっている。つまり、志村さんが暴れている時は既に蒸気機関車は走っていない。ピンクのサウスポーは1981年のヒット。
我が家族は国鉄一家である。
親父が国鉄員だ。蒸気機関車の機関助手から機関士を目指したが、時代はヂーゼル、電気の時代になり、電車運転士になった。だから、彼は蒸気機関車の機関士をやった事が無い。機関助手止まりだった。
構造上、蒸気機関車は一人では動かせない。だから、機関士と機関助手の二人で動かしている。しかし、
機関士と機関助手の間には徒弟関係があり、親父が国鉄に入った頃(戦中)は機関士が絶対的な権力を持っていたそうである。従って『ぽっぽやは蔑称だ』と当時の機関士は言っていたそうである。逆に機関助手を『釜炊き』と蔑視して、機関助手は機関士に奴隷の如く扱われたと親父は話していた。つまり、実際の労働者は機関助手であり、中には無能な機関士もいたそうである。
また、
『なみだのかわりにふえふきならし
げんこのかわりに旗振りおろす』
って、親父はそんな忍耐強い人格ではない。イメージで言えば、高倉健さんよりもフーテンの寅さん。
それはさておき、
国鉄が解体されて、地方の国鉄路線がどうなって、そこで働く者や、施設がどんな悲惨な結末を迎えてかを実感してもらいたい。そして、それを傍観していた私には、この映画やこの原作を評価できない。
親父曰く『(ぽっぽや)は国鉄員に対する蔑称だ』と原作者にクレームを入れた。勿論、原作者は無反応だった。
追記
親父も自分の生活の為に『スト破り』をやったと聞いた。しかし、労働組合から爪弾にされた。『集団就職の学生の為にスト破りを決行した』なんて、そんな善人は旧国鉄の職員には、個人として存在したとは思えない。
最終の集団就職列車はネットで調べると1975年の事。順法闘争の一番激しかったのは1973年だから、二年間重なって、そう言った事例はあるのかもしれない。しかし、理由は別にあると考えられる。親父のスト破りは全く別の時代。
親父は国鉄が嫌で、1982年(だいたい)に早期退職してしまった。それでも、国鉄には35年位勤務したとプライドを持っていた。
高倉健という人の佇まいが生きている
高倉健だから、きっと硬派な物語、
映画と思いきやそうではない。
職務一徹、硬派であった男への
愛の物語であるように感じる。
物語は北海道のローカル線に勤務する男。
蒸気機関車の時代から職務に命を懸けた。
しかし娘、そして妻の死を遠い何処かで迎えた。
まもなく定年という頃、男に不思議な出来事が起こる。
それは夢であり、心の現実でもある。
そして、あの雪の日のホーム。
それが何とも言い難く、深い涙を誘う。
男は、きっと幸せな時を過ごしたと思う。
※
寡黙に、淡々と、冷たく
寡黙に、淡々と、与えられた任務を全うする無数の無名の人たちによって、わたしたちの社会は守られてきた。
幌舞駅長の乙松もその一人で、娘の死目に、奥さんの死目に、「勤務中なので」立ち会うことはなかった。そんな風に「冷たい」男たちによって、わたしたちの社会は守られてきた。
わたしも乙松のような男の一人であったが、そんな風に「淡々と与えられた任務を全う」した「冷たい男たちによって、わたしたちの社会は守られてきた」と弁解して話を終えて良いものだろうか。
そう思いながら映画を視た。
家族には申し訳なかったと思う。
高倉健…不器用?とんでもない!!
高倉健といえば「自分、不器用ですから…」の人。もし、高倉健が鉄道員だったら?をまさに体現したような映画ではある。
でも、それだけでは終わらない味わい深〜いのが滲み出ていて、大スターと言われる格の違いを感じた。
確かに、地味は地味なので観る人は選ぶと思う。でも、高倉健演じる乙松の真面目さ、愛情深さ、ひたむきさ…滲み出る人柄は誰もが惚れるかっこよさで魅力される。
雪深い駅にたった一人で哀愁溢れる乙松もまたかっこいい。(画になる!!)
そんな乙松が笑顔になる出来事が!よかったと喜んだのも束の間のラスト…。泣かずにはいられない。でも、乙松らしく素晴らしかった。
けんさんの演技が良かった!
高倉健さんのぽっぽや。ずっと観たかった映画。
想像してた内容と違ってファンタジーだった。
運転室のシーンがCGで、初っ端から少し冷めてしまった。女の子が口移しでコーヒー牛乳をおじさんに飲ませるって、、あり得んよなぁ。
駅舎の中もおそらくセットだと思うのだけど、古いはずなのに柱や箪笥など全て綺麗なのが違和感があった。健さんの帽子は古いけどコートが綺麗なのも気になった。
インテリアも男一人で暮らしている割には、綺麗にレイアウトされているのに違和感があった。
健さんと小林稔侍さんが酔っ払って飲んでるシーンも、分かりやすく一升瓶や徳利が転がっている様子に、こんなに飲んで酔っ払ってますよーと言いたいのだろうけど、わざとらしく転がっているのが凄く気になった。
綺麗に配置されている小道具が、セットですよーという感じに見えて目につく。そこがとても残念だった。
とても良かったシーンといえば、志村けんさんの演技だ。酔っ払いといえば、志村けん。あの千鳥足は他にはできないと思う。千鳥足からぶったおれたり、急に寝たり、おえーと吐きそうになるなど、志村けんさんの中の「酔っ払い」演技の全てが詰まったという感じ。
コントの時とはまた違った演技で、凄く良くて、もっと志村けんさんの他の演技が観たかった。
健さんが志村さんを指名したそう。
酔っ払いといえば、志村けんだろ、と。
素晴らしいキャスティングだと思う。
ありがとう、健さん。
ありがとう、けんさん。
不器用な駅長姿に泣ける
子どもや妻を看取ることもせず、駅長としての仕事を全うする姿。その責任感ある駅長の姿を、高倉健が「演じている」感がなく、自然と表現しているように思わせることが、高倉健の高倉健たる所以であるんだと思う。
小林稔侍が演じる同期入社との男の友情を物語る場面も、秀逸である。
人の人生の切なさのその先に。涙腺崩壊。
子供の死に目にも、妻の死に目にも、鉄道員として働き続けた男の物語。
家族を顧みない仕事人間としてのあり方には現代においてはまるで共感できないが、終点の駅を自分が支えるという責任感の強さには、人として一貫した信念としてのある種のかっこよさとして捉えることができた。
この映画は常に、生きることと死ぬことが同居しており、人の死や、廃線という鉄道としての終焉が重なるようになっている。そして、主人公の死とも。
わずか生後2ヶ月で亡くなった娘が、幻なのか成長した姿で出てきた時に流した涙は、それまで職業人として一滴も流れなかったのに反して、そのシーンの彼の本当の気持ちがわかるようになっている。
この辺りの娘のシーンに関しては、もはや分かっていても、いや分かっているからこそ、娘と分かった時のシーンは、大号泣してしまった。死んだ娘が出てくるというシチュエーションかつ、初めてお父さんと呼ばれる心境を思うと泣ける。
義理の息子のような子からも、おじさんとしか呼ばれず残念だったし、お父さんと呼ばれたいと思っていただろうと思うと切ないよね。子は子で、おじさんとしか呼べないことへの残念さを滲ませていたのが、さらに切ない。
そこまでの回想シーンの積み重ねや境遇からしてやばかったので、このあたりはこの映画の巧妙さであろうと思える。
出てきた娘は死神か、天使か、それとも主人公がこれまでの罪を許してほしいと願って出てきた幻覚か。
やはり、素直に娘の魂が帰ってきたと思いたい。天国でこそ出会い、そこでは家族として仲良く生きていてほしいと思える作品。
ちなみに、今更になってこの映画を見たのは、志村けんの1シーンがNetflix公式に上がっていたのを見たから。志村けんは、志村けんでしたね。
古き良き、失われていく昭和
国鉄時代からの鉄道員として。
セリフにもあったがこの世代を生きてきた人達は、頑固で真面目で融通がきかない人が多い。
そのうちの一人、佐藤乙松。
そして、その周りの人々を描いた。
ファンタジー要素が入ってると思ってなかったのでびっくり。そんな映画だったんだ。
そこに感動ポイントもあったんだ。
あの頃の脇役たちが、今ではおじさん世代の名優として活躍してる。
そんな発見も出来ておもしろかった。
良い映画なんだけど、若い人には理解できないだろうな~
たぶん10年ぶりくらいで、3~4回目の鑑賞
余談だが、私が高校生の頃、地元のローカル線が廃止になり
最後の記念にと、終着駅発の最終列車に乗ったことがある
映画と同じく、奥さんと駅に住み込みで働いていた駅長さんが、定年を待たずに退職を選んだことを翌日の新聞で知って、泣きそうになったことがあった
映画の感想だが、
1回目の鑑賞時は、死んだ娘が自分の成長を見せに来たことが強く印象に残っていたが
何度か見るうちに、冒頭から続く小林稔侍との『男の友情』に浅田次郎作品らしさをを感じるは自分だけか?
主人公が、「自分が娘や妻を死なせてしまった」という後悔の念があるから、こういう回想シーンになったと思うが、主人公が、あんなに責められるのは不自然だと思う
志村けんがウケ狙いの演技してるところは要らなかったし、広末涼子はかわいいけどこの映画には合ってないと思う
泣いてしまった
最初は期待せず、観ていた。
健さんが観られるだけでも素晴らしい。
年齢を重ねて、さらに演技にも磨きがかかってる気がした。
健さんは最後まで江利チエミが好きだったと何かで聞いたことがあるが、
本作ではテネシーワルツがよく流れるから、健さんの本作への想いも強かったのでは
ないだろうか。
個人的には、小林稔侍、大竹しのぶ、広末涼子はミスキャストだったと思う。
それにしても、死んだ娘が、晩年を迎えた父に会いにくる。
不覚にも、泣いてしまった。
我が娘が、私に鍋を振る舞ってくれる時はくるのだろうか。
エッセンシャルワーカーの悲哀と誇り
昭和世代には、この駅長のように、住み込みで、家族ぐるみで、人々の生活を支えていた人たちがたくさんいた。駐在さん、学校の用務員さん…。
今も、人々のために働いて下さるエッセンシャルワーカーの方々はたくさんいらっしゃる。
東日本大震災でも、家族を家に残し、救助を求める人々のもとに向かった、警察官・消防士・自衛隊・行政職…。家で待っている子どもが、警察官のお父さんのことを心配して泣いていたっけ…。
コロナ禍で、家に帰ると家族にうつす可能性があるからと車中泊していた医療従事者のニュースも流れたっけ…。
昭和のTVドラマを思い出した。森繁氏が演じる医者が手術している間に、その医者の息子(鹿賀丈史氏演)が、怪我をして手術を必要とする状態になるが、他に医者がおらず手当てができず亡くなる。医者は息子がそういう状態なのを知っているのに、今手がけている手術も、中断できずー中断すればこちらも助からないからーという展開だった。命にかかわる仕事の厳しさを知ったドラマだった。
人流・物流。鉄道の力。
無人駅もあるから、駅には必ずしも駅員は必要ないのだろうとも思うが、やはり終点となると役割も違うのだろう。
都市で鉄道系が止まった時の混乱…。廃線が決まった線が第三セクターとして復活する。東日本大震災後、長らくつながっていなかった線の復旧の喜び。
やはり、鉄道もなくてはならぬ、生活を支える仕事。
その仕事と、私生活の間で、思うようには動けぬ葛藤。それが…。
自分の、後悔だらけの人生の背中を押してくれるようで、感動する人が後を絶たぬのも理解できる。
だけど…。
原作未読。
監督は何をしたかったのだろうか。脚本がグダグダ。キャスティングも…。
単なる自己弁護・自己救済・自己感傷の物語になってしまった。
乙松は決して家族をないがしろにする人ではない。
駅長就任辞令が出たとき(駅長業務が始まる直前)は、雪子出産時に病院にいる。
ツリーの飾りつけ…。静枝と一緒にクリスマスパーティの準備。
駅に集まる人々との間でも、人への思いやりにあふれている様が描かれる。
仙次に比べて出世はしていないから、組織内での立ち回りは”不器用”なのだろうが、ふだんのやり取りでは”器用”ではないが、温かい牛乳等の細やかな気配りができる人。
そんな乙松が妻子の死に目に会えなかったのは、駅長業務の代替がいなかったから。幌舞に医療機関がなかったから。
仙次のような大きな駅の駅長なら、部下に任せて行ったはず。だが、部下もいない駅長。代わる者がなかった。だから行けなかっただけ(仙次!代われ!とツッコミ!)。
幌舞に医療機関があったなら、業務がない時間は妻の側に居続けただろう。
もし、駅が機能せずに列車が走らなかったら…。学校・職場に行けず。大切な約束を果たせず。稀ではあるが、第二の雪子の悲劇が起きるかもしれない。そうさせないために、仕事を優先せざるを得なかったため。
だのに、高倉氏を起用したことで、たんに”不器用だから”となってしまう。なんだそれ。
例えば、乙松を、人情家というイメージが強かった坂上二郎氏が演じていたら、この脚本・演出でも、家族を愛しながらも、死に目に立ち会えなかった悲哀がちゃんと伝わったであろうに。
それだけではない。静枝死去の際、仙次の妻に乙松を非難させて、職場環境のせいではなく、乙松個人の問題にしてしまっている。仙次も乙松を言葉で擁護しない。妻の口を閉じさせようとするだけ。なんだそれ。
だるまやの女将が文句を言うのならともかく、とも思うが、だるまやの女将は乙松を責めたりしないだろう。雪子を目の中に入れても痛くないほどかわいがっている様を知っているから。普段の乙松・静枝夫婦ー静枝が乙松を愛し、乙松が静枝を大切にし、静枝の想いを叶えようとするさまを見ているから。
時代。
映画の中でピンクレディーが流れる。活動期間1976年~1980年。バブル直前。TVの中は狂騒的な番組であふれており、都心では皆飛ぶ鳥落とし、世界の覇者を気取っていたころ。その同じころ、石炭で生活している人々は、敏坊の父のような状態。
他に産業もなく、廃れていく幌舞…。
国鉄から、さしたる描写もなく、いつの間にかJRに変わる。唐突に、JRの”幹部”である仙次の息子へ、乙松(≒国鉄関係者)から苦言・要望が突然語られる。
国鉄からJRになるにあたって、かなりの数のリストラが敢行されなかったか?この組織変革についての描写はない。公開当時は、自明のことだったからあえての描写はないのだろうが(実際に争議もあってうかつにふれられないのだろうが)。
有無を言わさずリストラされた人、あえて自ら外の世界に飛び出した人。組織に残った人。
スト破り。本来仲間からそしりを受ける行為(炭鉱夫は仲間から袋叩き似合う)。乙松達は「年端の行かぬ子どもの達のために」と汽車を走らせる…。自分の利益ではなく、人々の為の仕事としての気概。
そういう背景あっての、鉄道で働いてきた人・働いている人の代表としての、「ぽっぽや」「それしかできない」という言葉の連呼であろうに。
そういう歴史をチラ見させるが、乙松の生きた時代が見えない。
たんに、本人の性格として、不器用・無骨に、周りの意見にも耳を傾けずに、家族を犠牲にして、自分のやりたい仕事にしがみついてきた男に見えてしまう。
原作はそんな話なのか?
役者の演技はそれぞれいい。
高倉氏は、温かくて責任感の強い初老の男を表現する。
大竹さんはやはりうまい。病室では、死にゆく人特有の匂いまで匂ってきそうだ。
でも、この二人が夫婦に見えない。親子に見えてしまう。実年齢差26歳なのだから当然なのだけれど。特に妊娠報告時の演出。幼児?
なぜ、この組み合わせ?
文句ありのキャスティング。その中で安藤氏は新鮮。安藤氏とわからないくらいの、この毒のなさ。こういう演技もできる方なんだ。こっちが素か?
そうして、鉄道員というエッセンシャルワーカーとして、時代の要請の中で、家族と人々のためにやるべきことをやり、生きた乙松の生涯が、すべて乙松の性格・生き方のせいになる。
そうして、家族を顧みずに、仕事に打ち込んだ男への賛歌となる。
ここで引っかかる。
男たちは、それでよかった、仕方なかったと自己肯定し、
男を支える女の幸せを刷り込まれた女も、この夫婦を肯定する。
本当にそれでいいの?
否。と言いたい。
男は、仕事を逃げ道にし、家族のことは置き去り。
「企業戦士だったのだから」「経済的に発展させたのだから仕方がなかったじゃないか」
定年を迎えるこの映画スタッフからは、「良い映画を撮るためだったのだから仕方がなかった」という声が聞こえてくる。
全体的に経済成長は著しかった。でも、だからどうした。
終戦時からの復興には感謝するが、経済的に発展すればいいのか?
家族を置き去りにしたツケは見なかったフリ…。
エコノミックアニマルの匂いがぷんぷんしてくる…。
犠牲自慢をして、粋がる男たち。
自分勝手な男たち。
なんて、ブラックな…。
もう一つ、腹が立つのは、妻に愛され、周りからも慕われ、気にかけてもらえるような男の人生を、「何も良いことがなかった」と言い切るところ。
乙松自身は、皆に感謝しつつ「幸せだ」と言っているのだが。
確かに、家族に先立たれる不幸はあるけれど、妻の笑顔、妻が作る食事=普段の生活にも”良いこと”はなかった?雪子が授かったのが、結婚してから17年目。妻が亡くなったのは一昨年。少なくとも、静枝との生活は18年以上ある。雪子が亡くなってからぎくしゃくした可能性はあるが、静枝の最期の言葉は、乙松への思いやり。
家族を亡くした人が、自分に責がなくとも、自分を責めるのはよくあること。こうしたら、ああしたら、仮定の後悔ばかり。乙松が自分を責めるのは仕方がない。
でも、ここで「良かったことがなかった」と言い切るのは乙松ではない。なんだそれ。
映画の制作者たちは、経済発展・華やかな栄誉にばかり目を向け、
妻との、地域の人々との生活の積み重ね=小さな日々の幸せはなかったことにする。
何を”良いこと”とするかはその人の価値観だけれど。
妻に理解され、周りの人から慕われ、リストラもされずに一生と決めた仕事をやり終えることは”良かったこと”には入らないのか?
そして、個人のせいではなく、家族を犠牲にしなければいけない仕事の仕組み・働き方…。なんてブラックな…。
もっと、乙松が”そうしなければいけない事情”をちゃんと描いて欲しかった。
妻との、地域や職場での生活を描いて欲しかった。
そのうえで、乙松の、不器用ながらも真摯に、家族に、人々に向き合った人生を肯定して欲しかった。
昭和史の総括。
そしてこれからの生き方を考えてしまった。
☆
いろいろなレビューを拝読すると、乙松と高倉氏は重なるところも多いらしい。
生まれてこれなかった赤ちゃん。
お母様の死に目より、仕事を優先したこと。
離婚されていたから、江利チエミさんの死に目にも立ち会えなかったのではなかろうか。
はじめは、この映画への出演を辞退されたという高倉氏。
テネシーワルツを使うことにも抵抗を示したという高倉氏。
どんな想いでこの映画に出演されたのだろうか。
高倉氏にとって、演じることで、カタルシスが得られたとか、良い方向になったのだと願いたいが、
人が嫌がることを強要する監督のことは、嫌いになった。
それ、ハラスメントだ。
(この監督の映画、初鑑賞)
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