母(1963)

劇場公開日:

解説

原作、脚色、監督ともに「人間」の新藤兼人が担当した、社会ドラマ。撮影もコンビの黒田清巳。

1963年製作/101分/日本
劇場公開日:1963年11月8日

ストーリー

吉田民子は三十二才。極道者の二度目の夫からのがれて、息子の利夫をつれてとび出した。しかしその息子も、脳腫瘍と診断され、途方にくれた。民子は母の芳枝に手術代を無心したが「治らないとわかっている病気に金を使うのは無駄だ」ととりあわず、はては、「もう一度結婚して男から金を出して貰え」というのだった。民子は母のいうなりに田島という韓国人の印刷屋と三度目の結婚をした。田島は利夫の手術代を出してくれ「おれと一緒にいつまで辛棒してくれ」と民子を労わった。民子も「この人とはどうしてもうまくやらなければ」と自分を励ましていた。完全に治癒したと思っていた利夫の病気が又再発した。「再手術は危いあと三、四ケ月の寿命だ」と宣告された民子に、田島は「一日でも永く生かしてやりたい、出来るだけ治療してやろう」という。民子ははじめて田島に深く心を打たれた。どんな人間でも生きる権利がある。残り少い日を人間らしく生かしたいと、オート三輪に乗せて盲学校にかよわせた。利夫がオルガンを欲しいと言い出した。途方に暮れる民子に春雄は一万五千円借りて来て利夫の望みをかなえた。それは幼い日、姉に我まました自分の借りを返えしたにすぎなかった。そんな春雄もバーのマダムをめぐる三角関係のもつれから刃傷事件を起し、無残な最後をとげた。まもなく追うように利夫も死んだ。虚脱した民子を田島は思わず抱きしめた。彼は泣いていた。その時民子は又新しい生命を宿していた。「わたし田島の子を産みたい、私の中には利夫も田島も入っている。何も出来ないけど一人の命を産むことは出来るわ」それは美しい母性の顔であった。

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映画レビュー

4.5広島でのロケと広島弁で綴る「母親」の願いと葛藤

2022年6月4日
PCから投稿
鑑賞方法:映画館

主人公の乙羽信子は2度離婚し、6歳ぐらいの男の子と、母親の杉村春子の家に住んでいる。その男の子が重い病と分かり、その治療をさせたいと願う乙羽信子である。殿山泰司、高橋幸治らが出演。
見て驚いたのであるが、この映画が公開されたのが昭和38年とのことで撮影はその前あたり。ほとんど広島市内で撮影されている。当時の広島の様子を捕らえた記録映画ではないかと見入った。
平和記念公園、平和記念資料館は昭和30年に完成。広島市民球場は昭和32年完成。空撮も含めてその辺りの様子が出てくる。原爆ドームの中でのケンカの撮影もあり、貴重である。また、その前の川では貸しボートがいくつか見られる。
そして、原爆スラムと言われている基町地区のバラックがこの家族が住む家なのである。路上で豚が飼われているのも面白い。のちに乙羽信子は子どもと印刷業を営む殿山泰司と住むが、その自宅での印刷の様子、杉村春子の紙折りの内職のシーンは当時の様子をよく表している。私の母も同じように内職をしていたことを思い出した。朝鮮人という言葉も出てくる。このときの言葉のやり取りも納得。

何といっても杉村春子の機関銃用のような広島弁と押さえつけるような言い方がとても印象に残った。トゲトゲしいが、時にはクスット笑わせるようで面白い。広島出身でないとあすこまでの完璧な広島弁はできないであろう。
乙羽信子の母親役もさすがである。耐えながらもひた向きに生きる女性を表現している。
この二人の母は同じように夫と離婚し、息子があり、杉村春子は大学生の息子(高橋幸治)と、乙羽信子は6歳ぐらいの息子(頭師佳孝:どですかでん)と住んでいる。
この母子の織りなす葛藤とさまざまな事件。母としてのやさしさや子への期待。そして、母はどう生きていくのか。
とてもいい映画であった。

(広島市映像文化ライブラリー)

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M.Joe
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